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不登校な娘たち その1「5年生になったら学校もういかない」と宣言してたらちょうどコロナ休校。

今日は学校再開のこの時期にあわせて、我が家の娘たちの不登校ライフについて書きたいと思う。不登校というよりも「自由な学び」としてこれは丁寧に取り扱いたい話題ですが、あえて不登校という言葉を使います。
これまで書いてきたこと、家庭菜園はまずまず順調。スイートコーン、トマト、オクラ、、、15種類くらいが夏に実を着けようと頑張って成長してくれてる。小屋づくりも6月初旬に仲間たちと棟上げをする予定。書きたいことはいろいあるけど、今日はこれ。

私には二人の娘がいる。今年19歳と11歳。長女はまじめにきっちり小学校へ通っていたが、4年生の1月のある日、学校へ行かないと宣言してちょうどインフルエンザにかかり、そのまま1日も学校というものに行かずに今日にいたった。次女はそんなお姉ちゃんを見て育ったからか、最初からマイペース。行ったり休んだりの五月雨登校。3年生のとき支援学級に入級して、楽しく通った時期もあったが、5年生になったら行かないと宣言してたらちょうどコロナ休校に入ってフェイドアウト。もう行く気がまったくない。

二人は8歳ちがいで、性格も違う。長女は成績はよかった。次女は勉強は苦手で、検査も受けたら図形を視覚でとらえるのが苦手で漢字も覚えにくいらしい。

そんな二人だから、不登校といっても過ごし方も成長の仕方も違うし、これから学校へ行かない暮らしを始める次女が、長女と同じように手伝いをバリバリして過ごすとはかぎらないし、親としての接し方も変えなければと思っている。また手探りの日々だ。

ただ、言えることは、学校へ行かなくてもいい、、、と親も思っているということ。どうしてそう思えるか、思えるようになったか、ということについても書くなら丁寧にかきたい、あらためて。

うちは自然農法で野菜、米、果樹などを栽培している農家、自然農園を営んできた。家の周りに畑や果樹園が広がっている。農園内でイベントを開催したりもしている。(離婚後、敷地内の離れで暮らしているので娘は父親の家と行き来できる。新しい離婚の形といわれたりもするが、よりよい選択をした結果だ)

そんな中で育っているので、学校へ行かなくてもやることはいくらでもあるし、ぼんやりしていてもいい。居場所があるというのは幸いだ。

最近の次女の日々はというと、絵を描く、草花を摘む、木に登る、お菓子やパンを作る、近所の不登校の友達と川に釣りにいったり、ナイフで竹をけずってヘラや武器?をつくったり、穴をほったり、自然を相手に自然発生的に遊びはいくらでも生まれてくる。畑仕事の手伝いもする。ユーチューブや漫画もたっぷり。(今どきのゲームはうちにはない、テレビもない)

田舎なので緊急事態宣言が出ても、おうち時間は大人も子供も農作業も遊びも普段通り。野道を歩いて2分の近所に不登校の友達がいるのも有り難い。(これも偶然ではなく私たちの暮らし方と関係していることだけど、またの機会にかきたい)

よく寝る子で朝もなかなか起きない。起きる時間をだいたい決めて、、、などと最初は思っていたが、はて、それが正しいことなのだろうか?いわゆる世間が決めた規則正しい生活って大事なのだろうか?早く起きなさいと怒ることが親の役目?いやいや、そうではなかろう。

常識って?常識とどこまで付き合って、どんな常識と縁切るか?ゆらゆら私の気持ちも揺れながら、彼女のリズムをそっと見守ることから二人目の不登校見守りライフを始めてみようと思っている。

つまり、不登校の娘と生きることは、私自身の学びの時間を生きること。

さてさてもうすぐ19歳の長女は今、自宅から遠く離れたカフェ(農園も営んでいるカフェ)で住み込みでスタッフをさせてもらっている。そのカフェ経営の料理研究家の方から「スーパーティーンエイジャー」と言われた通り、親からみても勉強以外は大人顔負け。

料理、お菓子作りが得意。イベントに一緒に出店したり、道の駅にお菓子を出荷したり、ケーキの注文を受けたりと、15歳のころからだんだん販売も始めた。畑から野菜や果物をとってきてせっせと仕込む。農作業は田植えも早いし、山仕事もナタをつかって枝はらいをしたり、薪割りもお手の物。力もある。薪ストーブに火をつけたりは日常で、七輪に炭をおこして小豆をたいてあんこをつくるなんてことは12歳くらいでやっていた。学校へ行ってないとコミュニケーションが苦手にならないかなどと言われたこともあったが、イベントでは接客もこなす。金額計算は苦手だけど、お客さんから助けてもらったり。

すべて、私がやっていたことだけど、学校へいかなくなってから家事を手伝うようになり、クッキーの作り方を教えただけで後は自分でお菓子を作るようになり、あれよあれよという間に家業にかかわるようになり、母である私よりすべてを器用に作業し、そして見た目美しく美味しいものをつくるようになった。

長女17歳のとき作った、すももジャムの三層タルト お芋クリームのロールケーキ。スモモもサツマイモも娘自ら収穫。時間と手間がかかっている

もちろん、学校へいかなくなったころは、親子ともども不安な日々もあった。だんだんと落ち着いてからはフリースクール的なこともやってきたし、田舎暮らしの仲間たちが心の支えにもなった。

「なんでわたし学校行かなくなったんだっけ?忘れたw」と2~3年目にして笑顔で言っていたのが思い出される。

もちろん苦手なこともある。やはり計算と漢字は苦手。でも、本人がなんとかしている、なんとでもなる。親子げんかもした。とにかく、いろいろなことがあって、通り抜けて、高校卒業にあたる18歳までたどり着いた。
あっという間だった。

そして家をはなれ、得意なことを生かしてカフェスタッフや民宿でのバイトなど、自分で応募したりご縁をいただいたりと、新しい世界へ踏み出している。

さて、長女のころは学校とのやりとりが今より大変だった。校長室へよびだされたのも数回。そのたびに演説?してきた私。中学校の校長室にも入学式前に娘と二人で中学も行かない旨話に行き、先生方4人に演説?して、有り難いことにそっと見守ってくれて、まったく行かずに3年後、また校長室で娘だけのための卒業式をしてもらった(卒業証書もらえるのです)。

8年後の今、次女の場合は学校側も不登校ケースに慣れてきたのか増えてきたのか、そっと見守ってくれるようになってきた。ほっとした。その私が娘に対して口やかましくするなどということはおかしいぞ、と自分を戒める。なるべくそっと、手を差し伸べるときはさしのべて、見守りたい。それは、ゆったりとした社会を望む思いと重なっている。

また、綴っていきたいと思う。

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