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表現規制という名の「病気」に対峙せよ 【赤松健先生応援記事】

こんにちはなのだ。

得たイさんが高校生の頃から20年以上も推してる漫画家の赤松健先生が、表現規制を食い止めるべくついに参議院選挙に出馬したのだ。

表現規制は既に危ないところまで来ていて、つい最近もAV新法により適正アダルトビデオが事実上の規制の煽りを受けてしまったのだ。AVの次は漫画・アニメ・ゲームをターゲットにすることはもはや明白なのだ。

得たイさんは、赤松先生のファンとしては勿論のこと、一人のクリエイターとして、そして性依存症の当事者として表現規制を阻止すべく戦っていくため、依存症治療の観点からこの記事を書くことにしたのだ。

性表現の規制運動はもはや「病気」である

性表現の規制運動は異性や性への嫌悪感すなわち「お気持ち」から起こると得たイさんは思っているのだが、性依存症・恋愛依存症の治療の観点から言えば、多くの当事者たちは異性との向き合い方に問題を抱えている故に性行動や恋愛に依存してしまうのだ。つまり性や異性に対する強迫的(依存的=自分や相手を大切にできない)行動は、その人が異性に対して不信感や嫌悪感を持っていることが根源にあるのだ。

これはおそらく性表現に対する忌避でも同じことが言えるのだ。女性を用いた表現に対する表現規制の主なインフルエンサーのひとつが似非フェミニストなのだが、女性(非実在を含む)を起用した広告や表現を拡大解釈して性的と決めつけ、それに反感を持つ男性はすべて性犯罪者予備軍とするばかりか、正論を述べる女性までも「名誉男性」と誹謗中傷を繰り返すのだ。

本来のフェミニズムは回復と同義

ここまで性に対して嫌悪感を抱く似非フェミニストなどの表現規制の声は完全に病気なのだ。その根拠は「フェミニスト」の定義と、性依存症治療プログラムの「性的回復計画(セクシュアルリカバリープラン)」の趣旨にあるのだ。

Wikipediaの「フェミニズム」の頁にはこうあるのだ。

フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差、性差別に影響されず男女が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である。男女同権主義に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義である。

フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者を「フェミニスト」と呼ぶ。

そして、性依存症治療プログラムの性的回復計画(セクシュアルリカバリープラン)の趣旨にはこうあるのだ。

AAで言われるような完全に飲むのを手放す生き方とは違い、私たちは完全な禁欲を目標に努力しているのではない。(中略) 最終的な目的は、性を排除したり抑圧することではなく、神が意図するように性を自分の生き方の中に統合することである。強迫的な摂食の問題と同様に、私たちの目的は、根源的な人としての生き方の中で自由と責任を達成することである。食べることもセックスすることも、どちらも本来は健全な行為なので、どの性行動、恋愛関係、環境そしてものごとが、自分の生きていく上で適切なのかを決定する際に、神の導きを求める。

性的強迫症からの回復のプログラム 第二版

フェミニズムと性依存症治療プログラムは、目的が同じなのだ。前者は女性であるがゆえの格差や差別などの生きづらさから自由になるため、後者は生きづらさから逃れるために強迫的な性行動に陥ってしまうことから自由になるため、つまりジェンダーとセックスの違いはあれど、一口に言えば「抑圧された性から解放されるため」という点で目的が共通なのだ。

上記の引用にあるように性依存症の問題は摂食障害の問題と同様なのだが、摂食障害は過食だけでなく拒食も病気であり、これを性依存症の問題に再度当てはめれば、強迫的な性行動だけでなく性嫌悪も性依存症と言えるのだ。

フェミニズムが回復なら似非フェミと表現規制は病気

そして性依存症の治療と目的を同じくするフェミニズムも「治療」と考えるならば、似非フェミニストは病気であると言えるのだ。得たイさんは本来の意味のフェミニストに当たるTwitterの論客はろくでなし子さんくらいだと思ってるのだが、彼女が「デコまん」で警察に逮捕されても戦い続けて表現の自由を裁判で勝ち取った一方、彼女のアートを展示して共犯として逮捕された北原みのり氏は国家権力に屈して罰金を払ったのだ。つまり、性表現の危機に対して北原みのり氏はろくでなし子さんと真逆の態度を取った似非フェミニストなのだが、性を解放したのがろくでなし子さんで、性を抑圧したのが北原みのり氏なのだ。前者は性と向き合い、後者は性から目を背けたのだ。

このように似非フェミニストの中には性を抑圧する考え方を持っていて、性暴力反対など綺麗事を言っておきながら表現としてのAVに反対の立場を取り適正AVを叩く人は掃いて捨てるほどたくさんいるのだ。

似非フェミニストの言い分は、基本的には性嫌悪を正当化して言い換えただけで自分が性を嫌悪してることへの「否認」(依存症の典型的な症状)であり、確実に病気なのだ。そして、ただの性嫌悪(お気持ち)を難しい言葉に言い換えてこじつけをしただけに過ぎない児ポ法改正請願が、直近では月1ペースで提出されているのだ。これは明らかな表現規制派議員それぞれのアディクション(依存)でありスリップ(依存行為の再発)なのだ。

https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/208/yousi/yo2080020.htm

  児童買春・児童ポルノ禁止法の成立から二十二年、第二次改正からも七年を経た今日、横行する子供の性の商品化や、性搾取・虐待を撲滅し、子供の性被害を無くすために、また、GPeVAC(子どもに対する暴力撲滅のためのグローバル・パートナーシップ)推進国の使命として、二〇一九年二月発表の国連子どもの権利委員会による日本政府への勧告の内容を十分に検討し、性被害の現状を改善する抜本的な第三次改正を成し遂げるよう求める。
 ついては、次の事項について実現を図られたい。

一、子供、又は主に子供のように見えるよう描かれた者が明白な性的行為を行っている画像及び描写、又は、性目的で子供の体の性的部位の描写を製造、流通、頒布、提供、販売、アクセス、閲覧及び所持することを犯罪化すること。
二、「女子高生サービス」や子供エロティカのように、子供買春及び子供の性搾取を助長し、又は、これらにつながる商業活動を禁止すること。
三、加害者に責任を果たさせ被害者となった子供たちの救済を確実なものとするために、オンライン及びオフラインでの子供の売買、子供買春、子供ポルノに係る犯罪を捜査、訴追し、処罰する努力を強化すること。
四、生徒、親、教員及びケア提供者を対象として、新しい技術に伴うリスク、及び安全なインターネットの利用法についてキャンペーンを含む意識喚起プログラムを強化すること。
五、子供の売買、子供買春、子供ポルノに関する国連特別報告者の勧告(A/HRC/31/58/Add.1、para.74)を実施すること。

第208回国会 請願の要旨


治療が必要なのは性加害者だけでなく表現規制派にも

表現規制派の言い分の間違い

表現規制派の主張の大元を辿ると行き着くのは性犯罪や性被害であることが多いのだが、彼らの言い分は得てして「性犯罪は性的コンテンツによって助長されているから規制すべき」に集約されるのだ。しかしこれは明らかな間違いなのだ。

表現規制派や似非フェミニストの中には「性的コンテンツが性犯罪を誘発する」ことの根拠として専門家の著書を出してくる人がいるのだが、実際にその著書を読んだ人は、これが根拠になり得ないことを鋭く指摘しているのだ。

斉藤章佳さん(榎本クリニック)は長年に渡って性依存症治療に携わり、津島隆太さんの「セックス依存症になりました。」の監修にも関わっている専門家なのだが、その専門家を以てしても依存症はいまだ解明されていない病気なのだ。だから推測や憶測を思わせる文言が著書の中にいくつも出てきてしまうのだ。残念ながら依存症は専門家にも治せないのだ。

得たイさんは性犯罪について、ほぼ性依存症と見なして良いと思ってるのだが、依存症治療プログラムの歴史(アルコール依存症治療が起源)は第一次大戦後のアメリカである重症アル中患者が医者に匙を投げられたところから全てが始まっているのだ。そしてアル中本人が試したスピリチュアルな方法が上手くいって、その方法を他の人に伝えたら見込みなしのアル中患者が次々に回復していったのを、医者のほうが認めざるを得なくなった経緯があり、このスピリチュアルプログラムは全世界にそしてあらゆる依存症の治療法として広がったのだ。日本では、その治療法を実践する自助グループを厚生労働省がホームページで紹介する(国の太鼓判がついている)に至ってるのだ。依存症治療プログラムは医学を超えた、言い換えれば、医学は性犯罪を含む依存症の前に完全に敗北しているということなのだ。

性犯罪の治療法は確立しているけど現代に至っても性犯罪そのものは解明されていないままなのだ。だから統計も取れないし、統計が取れたところで何の根拠にもならないのだ。そもそも依存症治療プログラムはいまだ解明されていないスピリチュアルを使っているから、効果があるにもかかわらず統計の取りようがないのだ。科学はいまだ未熟でしかないのだ。

性加害者に治療が必要な理由

表現規制派の言うことは性犯罪者には処罰ありきということで、児ポ法改正は要するに性犯罪の厳罰化に当たるのだ。しかし性犯罪厳罰化は、韓国の性犯罪者GPS義務化で多くの自殺者と前科14犯を出してしまい、GPSには効果がないことが証明されてしまったのだ。(性犯罪叩きは前科者の自殺を賞賛しているのだが、厳罰化の本来の目的は更生なので自殺者続出という結果は明らかな失策なのだ。)

性犯罪者に厳罰化ではなく治療が必要な理由は、性犯罪の原因が恨みだからなのだ。罪を犯したら罰を受けるのは当然なのだが、その当然を超えた過剰な厳罰化は恨みを助長するものでしかないのだ。だから前科14犯が出てしまったのだ。

依存症治療プログラムの基本テキストにはこうあるのだ。(アルコホーリクを性依存や性犯罪者などに置き換えて読んでほしいのだ)

私たちは正直に棚卸しをした。まず、自分の失敗の原因となっている、自分の欠点を探し出そうとした。いろいろなかたちで現れた利己心こそが失敗の原因だったことを確信した私たちは、その利己心がふつうどのようなかたちで現れていたのか考えてみた。
 第一の犯人は恨みだった。それは他の何にもまして、アルコホーリクを破滅させる。それは私たちを霊的にむしばんでいくすべての原因となった。私たちは精神的、身体的に病んでいたばかりでなく、霊的にこそ病んでいたのだ。だからそれが克服された時、私たちの精神も、肉体も回復した。恨みの問題に取り組むために、私たちはその内容を紙に書き出した。自分が腹を立てている人、しきたり、原理などを一覧表にした。そして、なぜ腹を立てているのか自分に尋ねてみた。ほとんどの場合、私たちの自己評価、財布の中身、野心、対人関係(性も含めた)が傷つけられたり、おびやかされているのが原因であることがわかった。それが私たちが心を痛め、激しく怒った原因だった。

アルコホーリクス・アノニマス 

また、性依存症治療プログラムにもこう書かれているのだ。

 AAの文献によると、恨みが第一の犯人であると言えるだろう。恨みは何にもまして、性的強迫症者を破滅させる。なぜならば、私たちは「恨みをはらす」のにアクティングアウト(行動化)以外の方法を思いつかないからだ。アクティングアウトは解決、武器、報復手段に見え始める。そして、どれだけ私たちを傷つけたかを相手にわからせる方法に見え始める。
(中略)
 私たちは自分の怒りが正当だと感じ、それにしがみつく。何があっても手放そうとしない。だから、私たちは性的強迫症の初期症状に気づくと、そのことでさらにイラついてしまうのだ。

性的強迫症からの回復のプログラム 第二版

プログラムの言う「恨み」とは今に始まったものではなく、生まれてから現在に至るまでのすべての恨みの感情なのだ。プログラムを持ち出すまでもなく感情の溜め込みが人生に良くない結果を残すことはよく言われるのだが、犯罪行為の身勝手さは根源に恨みの感情があることを認めなければならないのだ。

表現規制派に治療が必要な理由も同じ

性犯罪の原因は恨みだと先ほど書いたのだが、恨みが引き起こすのは犯罪行為や依存行為とは限らないのだ。先述の引用にもある通り、恨みは傷つけられたことが原因にあり、そしてそれは解決手段に見えることがあるのだ。性被害者の女性が男叩きをしたりすることはよくあるのだが、差別発言までするのは性犯罪叩きが性犯罪撲滅のための解決策に見えているからなのだ。これは似非フェミニストや表現規制派の言い分でも全く同じなのだ。

表現規制派はまさに、厳罰化が解決方法に見えているし、それを月1ペースで請願をゴリ押ししているのだ。それは間違いなく恨みを根本とした行動化なのだ。このプロセスは性犯罪と全く同じで、また依存行為であるということは再犯率が高いということなのだ。国会では月1ペースで児ポ法改正請願提出という「再犯」が何度も行われているのだ。だから性犯罪者と同様に治療しなければならないのだ。

我々オタクはどうすればいいのか

我々がオタクとしてできることは無論、赤松先生と山田太郎議員を応援することなのだが、それはあくまで「オタクとして」やることなのだ。それだけでなく、我々はオタクである前に「一人の人間として」自分自身に対峙する必要があるのだ。それが結局のところ表現規制に対峙することになり、赤松先生を表現規制阻止の戦場に送り出せるかどうかの鍵になるのだ。

女の子を守るというある種の依存

いにしえのオタクなら、このバナーを覚えている人もいると思うのだ。

「オタクだからこそ女の子をまもります」

これは2004年にオタクが女児を殺害した事件当時、「オタク=犯罪者予備軍」のレッテルを貼られる危機感からある一人のオタクが起こした運動で、まあ運動といっても参加者は自分のサイトにバナーとリンクを貼るだけだし、宣言の内容もリアルの女の子へのオタクの加害性を否定するだけのものだったのだ。

当時これに違和感を持った人は多いと思うのだが、まずもって女の子を守るという前提がそもそも間違っているのだ。「男性は女性を守るもの」というのは幻想なのだ。当時は批判も多かったのだが、女性を守るべきという考えは生育歴のどこかでまかり間違って身についてしまったもので、オタクの外からは気味の悪いものだったのだ。それはやはり、女性に対して何かしらコンプレックスのあるオタクのある種の依存的行動だと思うのだ。今もこのようなオタクは表に出ないだけでたくさんいると思うのだ。

2004年当時、二次元ですら女性キャラは男性に守られる存在ではなかったと記憶してるのだ。ダイの大冒険では昔から女の子が戦ってたし、かつてはマリオに救われるだけだったピーチはスマブラでバトってるし、赤松先生は「ネギま!」連載開始間もない頃から既に女の子を矢面に立たせ、さらにネギ先生(10歳)の「女の子を守る」という姿勢を当の女の子に完結まで何度も何度もバッサリ切り捨てさせていたのだ。「女の子を守る」は子供の浅はかな考えなのだ。つまり「オタクだからこそ女の子をまもります」は子供の頃のまま時が止まっているオタクなのだ。女性は誰も男性に守られることなど望んでないのだ。

女性を神格化しているなら我々も治療を

「女の子を守る」という考え方と表現規制は実は同じ穴のムジナなのだ。そこには女性を神格化しているという共通点があるのだ。前者は女性を聖なる存在と見ている節があり、後者は女性が性犯罪を犯すはずがないという誤った認識がどこかにあるのだ。女性を神格化しているということは、人間扱いしていないということなのだ。

くどいようなのだが、女性を神格化する考え方も恨みが「第一の犯人」なのだ。女性神格化には女性に逆らってはいけないという恐れ(=逆らった時に罰を受けて傷ついた恨み)が根底にあるのだ。幼少期の女性不信は根底に神(=女性)への恐れ(神は自分の生殺与奪を握る存在)が刻印されてしまっていて、それがそのまま宗教に対する態度として現れ、スピリチュアル的(霊的)なものを信じることができないのだ。

依存症治療の基本テキストにはこうあるのだ。

 自分が無神論者、あるいは不可知論者だと思っている人にとっては、霊的な体験などという言葉が出てくることは我慢ができないだろう。だが飲み続ければ、ましてその人が手遅れの部類のアルコホーリクであれば、必ず不幸な結果になる。

アルコホーリクス・アノニマス

宗教やスピリチュアルを信じられないのは、自分本位の考えに囚われているからなのだ。人生の無数の思い込みの連続で自分本位になってしまったから、神を誤解して考えが歪んでしまったのだ。だからアル中は医者に止められても酒を飲むし、ミソジニーは女性に傷つけられたという「思い込み」で勝手に女性を恨んで叩くか、あるいは神格化して崇めるのだ。

自分本位な考えを捨てるにはスピリチュアルプログラムによる治療が必要なのだ。なぜなら自分本位だから自力でその考えを捨てることはできないからなのだ。

実はそういう治療法は宗教の中に組み込まれているのだ。というか、依存症治療プログラム自体が宗教とまったく同じ原理を用いられているのだ(ただし治療プログラムは自分なりに信じた神を自分で決められるから宗教ではないのだ)。だから依存症治療基本テキストには宗教への偏見を捨てるべき旨が何度も書かれているし、信じなかった人の結末も記されているのだ。考え方を改める方法は信じたもの勝ちなのだ。

表現規制阻止の目的とは

表現規制に反対する我々が規制派と同じ自分本位の考え方では、この戦いはただの水掛け論になってしまうのだ。だから目的をしっかり見据えないといけないのだ。

表現規制派が表現を規制したい背景は性犯罪なのだが、目的と手段を混同しているのだ。本来は性犯罪をなくすことが目的のはずなのだ。だから当然ながら、我々が性犯罪を起こすような印象を一般に与えるのは悪手なのだ。こればかりは各々がそんなことしないと主張したところで一般の人は信じてくれないのだ。オタク全体の印象はどうであれ、見られるのはその人自身なのだ。オタクはコンテンツが性犯罪と関係ないことを主張するのが本来の表現規制阻止の目的であり、そのために自分の心の奥底にある考えを改めなければならないのだ。

無論、我々だけでなく赤松先生と山田太郎議員もこの目的を見据える必要があると思うのだ。だからこそバックの我々が変わらなければならないのだ。そして表現規制派を表現規制ではなく性犯罪の抑止(すなわち治療)という本来の目的に軌道修正を働きかける必要があるのだ。矢面に立つのは赤松先生と山田太郎議員なのだが、我々一人一人が自分自身を変えていくことこそ赤松先生の戦力たりえることを認識すべきだと思うのだ。

性依存症当事者の得たイさんは自分の性を自由に解放したい、そのためにエロ同人を描いてみたいし、学生時代のようにエロパロ小説をまた出してみたいと思うのだ。それは即ち間接的に性被害をなくしていくことに繋がる、だから治療に励んでいるのだ。

マンガやアニメ、ゲームを守るのは自分自身のためなのだ。ここに得たイさんは自分自身と対峙することを以て、表現規制を阻止するために立ち向かう決意とするのだ。

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