働く右手と包む左手

働く右手と包む左手

人を傷付けるくらいなら、自分が傷付く方がいい。

誰かを傷付けるよりも、自分が傷付いた方がマシ。

そう思っていることは、周囲にも伝わってしまうのだろうか。

気付けば、反撃をしない便利なオモチャにされていた。

私にだって心はある。痛みも感じる。涙も流す。

それでも、反撃をしたら彼らと同じになってしまう。

誰かを傷付けることになってしまう。

子どもは時として純粋さゆえの残酷さを平気で他者に向ける。

成長し、自我が芽生え、道徳や倫理を学んでも、オモチャで遊ぶ。

彼らは遊びのつもりなんだ。

そう言い聞かせながら、彼らの行動に反旗を翻すことをしなかった。

だけど、私のこの想いはどこに向ければいい?

悩んで刃を向けた先は、”自分”だった。

怒り、憎悪、悲しみの全てを銀色の刃に込めて、私は”私”を傷付けることにした。

これなら、誰かを傷付けることはない。それに、私が傷付く方がマシだから、と。

時が経てば彼らもオモチャで遊ぶよりも面白いことを見付けて私で遊ばなくなった。

私に残ったのは傷跡だけ。

誰かを傷付けないという想いを守り続けたという事実と一緒に残った。

けれども、私が耐えた証は私を異形にしてしまった。

見ず知らずの人間から向けられる冷たい眼差し。

わざと聞こえるように嘲笑する声。

腫れ物扱い。

右利きの私の左手は、私が耐え続けた証のはずだったのに。

今度は私を苦しめる種となり、気付けば私は左手を嫌うようになった。

役立たず。迷惑。何でこんなものがあるんだ。

だけど、それは違うということに数年経って気付いたんだ。

右利きの私は、右手でペンを持ち、右手で創り続けている。

そう、私の右手は働き者なのだ。

けれど、右手が働ける理由は左手だ。

左手が私の全てを受け止め続けていたから、私を支え続けていたから、だから今、右手が働けているのだ。

それに気付いた時、私は左手に詫びた。そして、感謝をした。

お前がいてくれたから、今、私は生きている。

お前が受け止めてくれたから、今、私は暗い感情や痛みも理解できる。

お前が支えてくれていたから、今、私は創り続けることができる。

ごめんね。左手。

ありがとう。左手。

もうお前を嫌うことは絶対にしない。

お前は私の生きた証。

お前は私の理解者。

お前は私の歪な形の宝物。