極身の回りこそが肝心
トップ画はNeue Donauにて。「新しいドナウ」という意味です。
昨日はウィーンの日本人のお友達宅でブランチしてきました。
ドイツに住んでいた頃ギリシャでの映画出演にて出逢ったご縁が続き、広がり(広げて頂き)。
共に食事を囲み時間を過ごす中で、ここ数年色んな辛いところを通りながらも、確実に助け船が与えられていたことを思い出していました。
ドイツに居た頃もオーストリアに来てからも、どちらも初めて住む地だったにも関わらず、すぐ側に温かい人達が居た恵みについて。。
△ブレーメンの友人宅にて。
その良縁とは"幾多"ではなく。一人、二人、三人、四人...と、本当に身近に与えられた一人一人の人々。
外へ外へと目を向ける能動的な時があっても良いし、浅く深くとあちこちに人間関係を持つことは精神衛生のための知恵だとも思う。
ただ基本的には無理のない自然なご縁を信頼しているし、"極身の回りこそが肝心"で、そこを後回しにしてはならないのだと、歳増す毎に感じている。
身近になる程難しいこともあるのだけど、特別側に与えられているご縁を「必然」と捉えるか否かで、何もかもが変わっていく気がする。
また人生の一歩一歩、一つ一つを魂の目で確認していくことで、自分の領域でないはずのものが紛れ込む「違和感」「不自然」を察知する能力も自ずと養われるような。
世的な理屈じゃない。縁のある人・時期って不思議なほど魂がふっと磁石のように引き合うはずなんだよ。
礼儀は誰を相手にも欠かしたくないし意志的な選択はあるけど、この人と仲良くなろう・気に入られよう等と意気込むものじゃないというか。
その人を何らか意識した瞬間があったとしてもそれすら忘れる位、気付いたらそうなってるというか。
後は"その時には何故かわからないけど託されている"ようなこともあって、そう感じる時の私はよっぽどじゃない限り抗わない。
...なんてことに想いを馳せながら、今、静かに満たされています。
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