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“デブデブ”“カバ”“ぽん太”が子どもたちに対してできること

 コロナの影響で、「子ども食堂が開催できない」と悩んでいる方々も多いと思います。安全第一ではありますが、一刻も早く再開できる再開できることを願っています。

 さて、本日は、これまでコミュニティソーシャルワーカー(CSW)として子ども食堂を開催してきましたが、そこで起こった出来事と、それを通じて考えたことを書いていきたいと思います。また、子ども食堂を始めた経緯などは、いつか日を改めて書いていきたいと思います。

 なお、デブデブ、カバ、は、子ども食堂に参加した子から言われた悪口(笑)で、ぽん太というのは、子ども達からの愛称です。ぽん太カードのポン太に似ているようです。

子どもサロン「もりもり元気食堂」

 これは、子どもの貧困対策としての「子ども食堂」としてだけでなく、孤食防止や、困りごとを抱えている世帯の早期発見の仕組みづくり、そして何より「みんなで楽しくご飯を食べよう」と、CSWとして、民生委員や自治会など、地域の方々と一緒に企画した食堂です。

 平成27年から始めて、これまで約5年間、活動をしてきました。そのなかで、ある小学生の子どもとこんなやり取りがありました。
 ※個人が特定されないよう、ある程度ぼかします。

 ご飯を食べ終わり、みんなで宿題をしている時に、ある子どもが叫んで、はしゃいでいました。今は宿題の時間のため、私が「うるさくするなら外に出なさい」と注意したところ、怒って、外に出ていってしまいました。

 少し時間が経ち、様子を見に行くと、まだ外におり、私をみると泣きながらどこかへ歩き始めました。「ついてくるな」と言われますが、もちろんそんなわけにもいかないのでついていくと、「いつも自分はこうだ」とその子は言っています。よく話を聴くと、「自分は、○○という発達障害なんだ」「わかっていても、ついかーっとなっちゃう」「いじめられることもある」「今日も嫌なことを言われて、余計にカーッとなって外に出ちゃったんだ」と。
 そして、「辛くて、死にたくなることもある。」とのことでした。

 まだ小学生の子どもの口から出た、「死にたくなる」という言葉。
 その子の発達障害のことは、親はもちろん学校や民生委員も把握しており、主治医もおり診断がついているため、すでにいろいろな相談機関が関わっている子どもでした。しかし、それでも辛い思いをしている子どもがいるという現状を痛感しました。

 その子は、その後機嫌も良くなり、また次の日も元気にご飯を食べにきてくれました。その子にとってこの食堂が“いい思い出”で終われるよう、大学生のボランティアの協力も得て、心理的にも、空間的にも最大限配慮しました。
 親御さんとも話すことができ、「自分の障害のことを、あの子が自分から他の人に話すなんて初めてだ。これまでも家で、ぽん太さんの話を聞くこともあり、うまく対応してくれているんだなと感じていた。これからも、見守っていってほしい」とのことでした。

ソーシャルワーカーにできることは何か


 こういった子どもたちに対して、我々が何かできないことはないか、ということを、それから考えています。
 改めてしっかりと書きたいと思いますが、発達障害などの“生まれつきある生きづらさ”だけではなく、それによる周りの無理解による不適切な対応による“二次障害”として、子どもが孤独感や疎外感、自分自身の人生に対する絶望、得も言われぬ不安などを感じたり、自己肯定感の低下が引き起こされることが、問題ではないかと思います。

 まずは、こういった発達障害や、それによる二次障害がある、ということを多くの方に知ってもらうことが大切なのではないかと思っています。加えて、学校の先生や地域の大人など、理解のある大人が介入し、二次障害を予防することも大切ではないかと思います。
 また、発達障害を理解していなくとも、その子と昔から付き合いがあり、「この子はこういうところでつまずきやすい」「このように対応すると安心する」ということをわかっている同年代の友達の存在を増やす、ということも必要かと思います。これを、意識的に学校の先生などの大人がマネジメントできないものかと思います。

 “生育歴上の二次障害の緩和”をどのように行うかということが、自分の中のテーマの一つでもあります。これは、現実世界における二次障害の緩和と、面接による本人の内的世界における二次障害の緩和の二つがあるのではないかと考えています。これについても、またの機会に。

他者の排除

 また、これに関連して、思ったことを少しだけ。
 人は、どうしても、自分とは違う他者を排除する、ということ。

 先のケースでいうと、、、
 “ギャングエイジ”として集団を形成するからこそ、排他的になって、“なんだか変なヤツ”は排除されてしまうのか。。。
 そもそも日本の教育システムのあり方が、画一的な思考を生み出す原因なのか。。。
 ・・・色々考えるけど、潜在的に、そもそも人は、自分とは違うものを排除するんだと思います。

 以前、知的障害者施設での凄惨な事件がありました。このことについて、多くの方が様々なことを感じられたと思います。上に関連して、自分が個人的に感じたこと。「重度障害者は死ぬべきだ」という言葉。決して犯人を擁護するわけではないですが、人間の中には、やはり、自分とは異質な存在を排除しようとする、無意識的な働きがあるのではないか、ということを感じました。

 ちなみに、誰か・或いは何かをを排除しようとして攻撃をする、という時に、実は、その誰か・或いは何かから自分が迫害されていると感じてしまい(迫害対象化)、それに対する攻撃として、攻撃性が引き出されてしまう。さらには、迫害対象化する相手には、その後ろに何かを投影(投影性同一視)してしまっている・・・という学説もあります。参考までに。

 障害者の差別解消法が施行され、不当な差別的取扱いの禁止、合理的配慮の提供などが謳われていますが、そもそも人は人を差別する、ということを意識化した上で、考えていく必要があるのではないかな、と思います。

 よく福祉分野で、「差別はよくない」「偏見を持つことはいけない」と言われますが、まずは、自分の内面にあるものと向き合って考えていく必要があるのではないかと思います。
 少なくとも、子どもに関わる仕事や、相談援助の仕事に携わる人は、無意識的な自分の援助動機などを振り返り、そこに自己欺瞞がないかを見つめなおす必要があるのではないかと思います。
 それは、無自覚的な自己欺瞞による子どもへの関わりが、時に子どもを傷つけることもあると思われるからです。

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