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ボーダー 二つの世界

スウェーデンの作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストさん。2008年に公開(日本公開は2010年)された映画「ぼくのエリ 200歳の少女」の原作の人なんですけど、この映画がとても好きで(2010年に公開された映画で一番好きかもしれません。)。その人の原作ということで観に行って来ました。「ボーダー 二つの世界」の感想です。

えーと、「ぼくのエリ 200歳の少女」がどういう話だったかというと、80年代のスウェーデンのとある団地に住む少年が、ある日引っ越して来た少女と出会うんですね。で、ふたりは恋に堕ちるんですけど、この少女はじつはヴァンパイアだったという。そういう、まぁ、ホラー系の少女漫画なんかにもありそうな話なんです(じつは、僕はこの日本の80年代の漫画にありそうな話ってことに最初興味を持ったんです。)。禁じられた恋というか。その文化も価値観も、なんなら死生観さえも違うふたりがどういう運命を辿るのか。儚くて美しいからこそ怖いみたいな映画で。ただ、その美しさに反して少女エリのヴァンパイア表現が結構エグくて。映画はエリがヴァンパイアだってことを示す為に伝説として伝わっていることをきっちり描くんですけど(例えば、当然人の生き血は飲むわけですし、陽の光には当たれないですし、家主に招かれなければ他人の家には入れないみたいなことです。)。そういうことを現代(80年代)の社会でリアルに描こうとするとどうなるかみたいな。異形の者のヴァンパイアを社会的弱者として描きながら、生き血を飲む為には殺人をしなきゃいけないという事実も描く。でも、それは人間社会であるからこその受け入れられなさというか。エリが存在してしまったことを事実として、その孤独と人間社会の矛盾を描こうとした話だったんですね。で、それはそのまま、今回の「ボーダー」のテーマでもあるんです。

というか、ほとんど同じことを言ってる映画なんですけど、違うのは、主人公が無垢な少女から醜いおばさんに変わったってことなんです。実際、「ぼくのエリ」は、その少女の無垢さと美しさで許されてる部分てあったと思うんですね。儚くて美しい少女の孤独というは確かにあるのかもしれませんが、これは(僕が「ぼくのエリ」を漫画っぽいなと感じた様に)ある意味でファンタジーだったと思うんですよ(要するにその孤独は無垢な少女にしか分かり得ないということです。)。ただ、エグい殺害シーンや、エリの中にある女性性(実際、エリがヴァンパイアとして生きていく為には、常にそばにいて世話してくれる人が必要なわけですけど、それをやっているのはエリに魅了された男たちなわけです。)を描くことで少女の中にある黒い部分も描いてはいたんですけど、それさえも少女の神秘性とか残酷さがなし得ることで。美少女強し。美少女には何も敵わないってことで納得させられていた部分も確かにあったと思うんです。ただ、まぁ、「ぼくのエリ」は、そこが面白かったんですよね。エリの(儚さや切なさまで含めた)無敵さに(主人公の少年同様)メロメロにされるのが。ただ、それだと「孤独な美少女最高じゃんか。」ってとこで思考停止してしまって、エリが抱える孤独の核心には触れられていなかったんじゃないかと。で、今回の「ボーダー」は、その無垢さとか儚さみたいなものは単なるこちら側の妄想(というか、そうであって欲しいという願望みたいなもの)だというところから始まる物語だったと思うんです。

今回の主人公のティーナは、人の感情を嗅ぎ取ってその人の考えてることが分かるという特殊能力を持っていて、その能力を活かして税関職員として働いているんです(だから、この時点で「ぼくのエリ」のエリとは違うんですね。エリが世間とは隔離された存在だったというのに比べてティーナは職も持ち家庭もあって、程度の差こそあっても普通の人と同じ様な生活を送っているんです。)。で、その中でヴォーレという男性と出会うんですけど、ヴォーレもティーナの様に醜い容姿をしていて、身なりもだらしなく、常に半笑いしてる様な生理的に嫌な感じのする男なんですよ。で、ティーナはこのヴォーレに惹かれてふたりの恋物語になって行くんです(そして、それがティーナの出自に関わるある重大な秘密を暴くことになって行くんです。)けど、ティーナには既に旦那がいるんですね。ろくに仕事もしてなさそうなダメ男で、でも、恐らくティーナのことは人並みには愛しているんです。ここなんですよね。ティーナがヴォーレに惹かれて行くのを見ながら、せっかく(ダメ男とはいえ)旦那もいて、優しくしてくれる父親もいるのになぜティーナは旅をしているヴォーレにわざわざ会いに行って自宅の離れに住まわせたりするんだろうかと思っていたんですよ。(映画を観てる時には、)それはよくある不倫ドラマなんかに感じる様な、既に成立しているものを破壊する行為に対する嫌悪感だと思っていたんです(旦那がかわいそうじゃんかっていう。)。でも(最終的にはこれを書いてて気づいたんですけど。)、そうじゃなかったんですよね。えーと、ティーナは普通の人とは違う見た目をしているんです。で、ティーナの旦那も父親も見た目は普通の人なんですよ。ヴォーレは醜いんです。これ、やっぱり、どこかで父親や旦那がいるこちら側の世界の方が(ティーナやヴォーレ側よりも)上だって考えちゃってたんだと思うんですよ。旦那もダメでヴォーレもそんなに良い人間とは思えないんだったら普通(こっち側)の世界を選んだ方が良いじゃないのかって。でも、そんなことはティーナには関係ないって話なんですよね。この人間社会で生きていることの漠然とした違和感(それによって感じる孤独。)。それを癒してくれるのがヴォーレって存在だったってだけなんです。つまり、僕はどうしてもこのことを僕がいる世界からの視点でしか考えられなかったってことなんですよね。映画を観てる間中。

「ぼくのエリ」のエリは儚くて美しいのでそこに神秘性を感じて理解することを止めてしまう。だから、その部分をなくした、より共感しやすい物語を今回の「ボーダー」でやってると思ってたんですけど、そうじゃなかったんですね。「ぼくのエリ」以上に共感や理解することを拒絶する様な物語だったというか、この映画を観て美しいと思うのも醜いと思うのもどっかに嘘が入ってる様な気がするんです。ティーナたちのことは本当のところでは理解出来ないということを理解するというか、全く理解出来ない存在というのが間違いなくこの世界にはあるんだっていうことを突きつけられた様な、そんな気持ちになる映画でした(理解出来ない映画を観て面白いのかというと、これが面白かったんですよね。理解しようとするのを途中でやめてただ受け入れるっていうのに変えたら、完全に「未知との遭遇」で俄然面白くなりましたし、ティーナがヴォーレに会いに行くシーンで恋の始まりにドキドキするみたいなところがあるんですけど、容姿が醜いってだけで「なんか憐れだな。」って感じてる自分を発見したりして。ああ、これかって思ったり。結構、新体験出来る映画でした。)。

あと、この映画、赤ん坊がキーになってくるんですけど、圧倒的に無垢な存在である赤ん坊がボーダーを越える様な存在になり得るってことなんでしょうかね。そこ、よく分かってないんですが。

http://border-movie.jp/

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