東京新聞の記者・望月衣塑子さんの同名ノンフィクションを原案に、今、実際に日本で起こっている政治的な事件をモデルにして、ポリティカル・サスペンスというフィクションに着地させた映画「新聞記者」の感想です。
えー、連日満席の大ヒットだそうで。参院選前のこの時期に公開出来たっていうのがこの映画にとってそうとうな追い風になってることは間違いないですが、世間への問題定義としても映画の内容的にも、選挙前と後ではかなり意味が違ってきちゃうと思いますし、この手の内容の映画を途中で止められることもなく公開出来たってだけでも凄いですよね。で、それって、もちろん実際の事件に対する世間の関心の大きさもあるでしょうけど、もうひとつ、この映画を最大限効果のあるものとして届けたいっていう製作陣の熱意。それにあてられてお客さんが来てるんじゃないかと思うんですよね。はい、では、それがどんな映画かってことなんですが。
映画内で大きく扱っている事件がふたつあって、ひとつは2015年に起きたフリージャーナリストの伊藤詩織さんが元TBSワシントン支局長の山口敬之氏を"準強姦罪"で告発したって事件です。強姦か合意かってことに関しては、正に今裁判で争われているので、その判決を待つしかないんですが、問題視されてるのは、山口敬之氏が安部総理のお友達だったってところで。すでに逮捕状が降りていた案件の逮捕寸前での取りやめ。この取りやめを直接指示したのが、当時、警視庁刑事部長だった中村格氏だと言われているんですが、この人は菅官房長官の右腕とされていた人で、実質的に山口氏の逮捕取りやめを指示したのは管官房長官なのでは?という疑惑があるんです。つまり、レイプ事件への政治的介入があったのではないかということなんです(しかも、この山口敬之という人、2012年の自民党総裁選に出馬を迷っていた安部さんの実質背中を押した人で。後の安倍政権を生んだきっかけになった人なんですよ。え、てことは、こいつが全ての元凶なんじゃ?というのは、まぁ、映画に関係ないので置いておきましょう。)。
で、もうひとつが、いわゆる「モリカケ問題」と言われる、当時、テレビなんかでも騒がれていたあの事件なんですけど。えーと、森友学園が国から国有地を買ったら、その金額が周りの土地の相場と比べて10分の1くらいだったという。それはおかしいんじゃということで調べたら、どうも、森友学園の理事長の籠池さんと安部総理の奥さんの昭恵さんは交流があるらしいと。ということは、安倍総理の口利きがあっての優遇なのでは?って話なんですね。ただ、まぁ、今のところ安部さんが関与したという確たる証拠は出て来てないので、疑惑は疑惑のままなわけなんです。で、その後に出て来たのが加計学園問題という、こちらは、52年間どこの大学にも新設が認められていなかった獣医学部の新設を、唯一認められたってことで。これまた安部総理と加計学園の理事長が古くからのお友達だったってことで。便宜が図られたんじゃあないのかということなんですけど、こっちの事件に関しても、今のところ安倍さん関与の確証はないんですね。ただ、森友学園の籠池さんは捕まったのに、加計学園の加計さんは証人喚問にも応じてなかったりとか、記者会見で安倍さんの関与の可能性のある証言があったのに、それは担当者がウソを言っていたなんていう中学生みたいな揉み消しがあったり(それじゃあ、なんでウソつく必要があったんだよってことには、結局、誰も説明出来なかったり)で。つまり、何だかよく分からないまま終息してっちゃってるって状況なんです(さんざん騒がれていた公文書改ざんていうのもこの事件のことです。)。ということで、この、なんかすっきりしないって状況を、なんですっきりしないのかっていうのを探るサスペンスにしてるのが、この映画なんですね。
ただ、事件は解決しないわけじゃないですか(実際に現実で解決してないので。)。じゃあ、映画は何をしているのかというと、空白を空白として描くことで、その空白そのものを意識させるってことをやってると思うんです。しかも、事実を出来るだけ事実として描くことが空白をより空白足らしめてるというか(この映画観た後に取り上げられてる事件のこと調べると、ほんとにこの空白には何もないんじゃないかって気分になりますよ。調べりゃすぐに分かるだろってことが分かってなさ過ぎて。)、取り扱ってる問題の中心が政治なのに、映画に政治家に政治家がひとりも出て来ないのはそういうことなんですよね。これって、中心をあえて描かない「ゴドーを待ちながら」とか、「霧島、部活やめるってよ」の様な作劇の仕方なんですね。ちょっと哲学的な話になっていて。で、その巨大な空白に翻弄される人々を描いているってことで、あの、あれに近いと思ったんですよね。「進撃の巨人」。「進撃の巨人」の巨人て存在の意味が分からないじゃないですか。でも、放っといたら食べられちゃうので、人々はそれを倒す為に戦いを挑むわけです。この映画での政治も、そういう存在理由が希薄な、だからこそ恐怖を感じるものとして描かれているんです。だから、映画の中で問題の中心に迫って行くことで、そこにあるものの虚無っぷりに戦慄することになるんです。マジ虚無です。
例えば、フィクションを前提にしてるってことを利用して、もっと人々を決起させる様な映画にも出来たと思うんですね。でも、この映画はそうはしてなくて。あの、監督のインタビューを読んだんですけど、監督は特定の政治思想がある様な人ではなく、最初の台本を読んだ時にあまりにもノンフィクションよりだったので一度断ったって言ってるんですね。要するに、原作の「新聞記者」をそのまま劇映画として落とし込んでもドラマとして成立しないってことなんだと思うんです(で、それは映画として大事なところが空白だからで。)。だから、シム・ウンギョンさん演じる新聞記者と松坂桃李さん演じる官僚が巨大な空白に向かって行く(その時ふたりが何を感じているのかっていうのを徹底的に描くだけの)物語にしたんだと思うんです。つまり、謎になっているところに何か答えを求めるんではなくて、その謎に直面した時に人はどうなるのか。それを描くことで謎そのものの理不尽さとか、怖さを描いてるんだと思うんです。個人的にこの映画でもっともグッと来たのが俳優の人たちの演技なんですけど、徹底的に人間を描くことでドラマとして成立させようっていう監督の意図が俳優の人たちとも共有出来てたから、その演技にグッと来たんだと思うんです。それは、この映画を単なる現実の模倣や正しさの押し付けにしないで、観てる人の生活と地続きの物語だと思わせるってことだと思うんですよ。で、それって正解だと思うんです。ていうか、政治なんてパロディにしてゲラゲラ笑う対象であるべきだと思うんですよね。つまり、政治に対してこれ程までにシリアスにならなきゃいけないっていう状況が既におかしいんです(翻ると今の現実がおかしいっていうことになるんですけど。)。なので、本当は、シム・ウンギョンさんなんて才能のあるコメディエンヌを使ってるんだから(「サニー」とか「怪しい彼女」のコメデエンヌぶり最高でしたよね。あと、あの「新感染」の第一ゾンビ役。)、主人公の新聞記者のキャラクターなんて、人としてダメなところや嫌なところも出してもっと感情的なキャラクターで良かったと思うんですよね。そうやって、自分たちに近いキャラクターが巨悪を暴く為に巨大な空白に飲み込まれて行く様な、フィクションに寄った話でも良かったと。なぜなら、全てのディストピアSFがそうである様に、フィクションの中には必ず現実が内包されてるからで(ていうか、それこそが映画なわけで。)。そっちの方が若い人にはアピール出来たかなと思うんです。だって、やっぱり政治に対してシリアスになるなんて表現としてはダサいことなんですよ(これもまた翻って、そうせざるを得ない状況って…ってことなんですけど。)。
なので、この映画はきっかけとして、第一投としてもの凄く良く出来てると思うし、この映画のパロディをテレビのお笑い番組でやるくらいの世の中になると健全なんだと思うんですけどね。今は、まだ、実際の政治の方がギャグなんじゃないかって状態ですからね。
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