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社会の底辺ではみ出しながら生きる人達をずっと描いて来た狩撫麻礼さんの原作を、そこで生きる人達の哀しさとかかわいさとかバカさ加減を絵一発で(キャッチーに)見せる事が出来る漫画家いましろたかしさんが描いた「ハード・コア」。僕は2000年に上下巻でエンターブレインから出た版を買って読んだんですが、両先生の漫画をそれまでいくつか読んでいた印象から比べると、その軽さというかゆるさに魅力を感じてたんじゃないかと思うんです。もともとおふたりの漫画の主人公はアウトサイダーなことが多い(というか、全てそうな)んですが、狩撫麻礼さんの方はどちらかというと熱血でアッパー、いましろたかしさんの方は内向きでいじけたキャラクターという印象だったんです。ただ「ハード・コア」に関してはその両極の中等と言いますか、熱さとクールさの両方を持った(これは簡単に言うと右近と左近の兄弟それぞれのキャラクターの違いとも言えるんですが、実際はもっと複雑で右近にも冷静さを感じるし、左近にも熱血漢を感じる部分があるんですね。)キャラクターで、いわゆるモラトリアムな中二的な主人公を描いていながら同時に世界を俯瞰で見てる様な大人な視点もあって、それが作品全体を切実にさせ過ぎないと言いますか、メンへラ過ぎなくて、当時、世間的にノンポリであることは普通だったんですけど、そんな思想のない僕等でも自分と地続きの青春として共感出来る様なゆるさがあったんですね。(ゆるさというか共感出来るリアルさですかね。)主人公の権藤右近は右翼に傾倒していて、その結社で埋蔵金を掘るバイトをしているんですが、思想自体もバイト感覚というか、街でチャラチャラしているやつらには馴染めないのでその反動でそっち側に振れているくらいの感じなんです。(いや、右近本人はそうは思ってないんですが、作品自体に世界を俯瞰で見る視点があるので、いくら本人が深刻ぶっていてもそう見えてしまうんですね。)

で、ちょうど同じくらいの時期に「バカの箱舟」だか「どんてん生活」だかの山下敦弘監督の映画を観て。その時は特に感じてなかったんですが、(こうやって文章にすると益々そうなんですけど、)山下監督の映画って正しく社会に馴染めない人達を描いているというか、バカだなと思いながらも共感してしまう(つまり、アウトサイドの人を描きながらもちゃんと俯瞰で世界を見る視点がある)ってタイプの映画だったんです。(そして、これは山下監督が「ハード・コア」を映画化するって知ってから思ったことなんですけど、)僕が原作の「ハード・コア」に感じてたゆるさとか軽さは、山下映画の持ってる"オフビート感覚"と同じだなと。で、このオフな感じに僕は自分の生活と繋がるリアルさを感じていたんだなと思ったんですね。そして、それは90年代の時代の空気というか、ノリみたいなもんだったんじゃないかなとも今回の映画を観て思ったんです。(はい、というわけで(前フリが大分長くなりましたが)映画「ハード・コア」の感想です。

えー、まず、右近と左近という兄弟が登場するんですが、兄の右近は社会に馴染めずドロップアウトしている、一般社会から見たらダメ人間なんです。(まぁ、一般社会から見なくても普通に人としてダメなところも沢山持ってるんですが。)で、弟の左近は右近と似た様な資質を持ちながらも現代社会の中でどうやってサバイブするかってことを考えて(社会的に見ればちゃんと)生きてる人なんです。(つまり、ふたりとも現状世界がクソだということは分かっていて、そのクソな世界に反発してそれ自体を変えてやりたいと思っているのが右近で、世界そのものが変わるわけはないのだから、その中でどうやって自分のやりたいことをやるかというのを考えてるのが左近なんですね。)だから、左近から見れば右近は愚かでもどかしく、右近から見れば左近は頭はいいけど分かってないやつと見えるわけなんです。(この根本のところでは同じことを感じつつも相反する存在であり、それでもお互いの無い部分を補完し合ってる関係って、ほんとに兄弟って存在をよく描いているなと思うんですよね。ここが僕がこの作品を好きな大きな理由のひとつでもあるんですけど。)で、右近の唯一の友達として牛山っていうちょっと失語症気味の住所不定で廃工場に暮らしている(更にダメ、というか、この社会で生きていくには都合の悪い)やつが登場するんですが、右近の様に「俺には世直しという思想がある。」ということを精神的支柱にして社会にコミットしていない分、より純な存在として描かれるんですね。なので右近からしたら、自分よりちゃんとしている左近と、自分よりちゃんとしてない牛山の間でもの凄く中途半端な存在として自分を見ているってところがあって。その、どっちにも行ききれてない情けなさというか何者でもない感ていうのが当時の漫画の主人公としてとても新鮮だったんです。(というか、ここも共感ポイントですね。)

それで、このキャラクターの違う3人の前に謎のロボット(ロボオ)が現れることで、3人の関係性や社会との関わり方がどう変わって行くのかっていうのを描くのが普通の青春物だと思うんですけど。(ロボオっていうのは、3人が社会に対峙する時に必要なスキルだったり財力だったりのメタファーで、それを手に入れた3人がどう成長して行くのかという。)ただ、この話、ロボオ登場以降も3人の関係性とか社会への関わり方ってほとんど何も変わらないんですね。というか、じつは、原作の前半のストーリーって右近と牛山のモラトリアムな日常がただ漫然と一話完結の形で描かれるだけなんですよ。(上下巻の上巻はほぼそういう話で構成されてます。)なんですけど、じつは僕はそここそが重要だと思っていて。モラトリアムで適当な時間が描かれるからこそ右翼団体で埋蔵金を掘るなんてことをやっている右近と牛山に感情移入出来たんだと思うし、ロボオっていう力を手に入れながらもそれを駆使しなかった右近の考えも理解出来るというか。それに山下監督の資質としても、このモラトリアムな時間を描くという作劇の方が絶対得意だと思うんですね。(「もらとりあむタマコ」とか「リアリズムの宿」とか、何もない時間を描くのは山下監督の十八番ですし。)恐らく監督自身もこの物語のここの部分に強く共感してたんじゃないかと思うんですよ。なんですけど、映画はその印象とはちょっと違ったものになっていたんですよね。で、僕はそれは監督のエピソードの切り取り方とか改変した部分のせいというよりは時代の空気感の違いのせいなんじゃないかと思ったんです。

うーんと、例えば、映画の冒頭で右近がひとりで行きつけのバーに行くってシーンがあるんですけど、原作にもあるシーンで、右近の前に女性客がひとりいるんですね。で、右近にちょっと話しかけてきたりして、まぁ、いい雰囲気というわけではないんですけど、右近からしたら普段女性と接することなんてないわけですから何はなくとも嬉しいわけですよ。そこにチャラい若者たちが入って来てカラオケやって盛り上がって、そのひとりで来ていた女性に簡単に声掛けて簡単に仲間内みたくなってるわけです。それに右近がキレて若者たちをボコボコにするって展開なんですけど。映画ではこの若者たちはハロウィンパーティーの帰りって設定になっているんです。ハロウィンと言えばここ最近の暴走する若者の代名詞にもなっているわけで。設定としてはとても分かり安いとは思うんですけど、これって、もともと原作では右近の器の小ささを印象付けるエピソードなんですね。だから、どちらかと言えば、「分かるけどそんなことに怒るなんてちょっと…」っていう感じがしないといけないわけなんですよ。でも、今の時代でハロウィンてキーワードが入っちゃったら、そこに何か社会性の様なものが加味されちゃうじゃないですか。もちろん、右近はそういうつもりで行動しているんですよ。なんですけど、その右近の真意が世間の人には伝わらないっていうのが重要だと思うんですね。その切なさというか。だから、2018年の話でああいう若者を出す場合にハロウィンてキーワードを入れないとそれは嘘になるんですけど、そうすると、それに対して怒っている右近は(いわゆる大衆と言われる人達がSNSで安い正しさを共有しちゃってる現代では、)少数派じゃなくなっちゃうっていう問題があるんですよ。で、これは右翼団体に所属してるっていう設定でも同じことが言えて。右翼的ってことが悪い意味で世間に認知され過ぎちゃってると言いますかね。要するに右近はそこまで考えて行動してないっていうのが共感ポイントだったわけじゃないですか。でも、今の時代ってこの"あんまり考えてないっていうゆるさ"を許容してくれないんですよね。だから、原作の時点ではそれほど意味のなかった(いや、というよりは、右近自身は意味があると思っていることに世間は何も反応していなかった)行動に全部意味が付いて来ちゃってる気がしたんです。(だし、山田孝之さん自体が何も考えてない様でいて確実に何かを秘めてる人じゃないですか。僕は山田孝之さんの起用は全然悪くないと思うし、2018年に存在する人物としてはこのくらいのリアリティがあっていいと思うんですけど、そうすると原作にあった右近像とはちょっと違うものになってしまう気がしたんです。)

だから、何て言いますか、右近が正義だと思って(まぁ、これも間違った正義なんですけどね。その間違っているのが何とも堪らずに愛おしいという。)していることの真意みたいなものが原作が描かれた1991年頃には世間的にはどうでもいいことだったのに、それから30年くらい経って、その真意が100倍くらいに薄められた"安い正義"として流通されちゃってるっていう状態なんじゃないかと思うんです。というか、今の時代に右近みたいな人がいたらそう見えてしまうということですよね。ただ、山下監督って人は、90年代のこの原作の舞台になってる様な時代を描かせたらじつはめちゃくちゃ上手い人なんですよ。(「松金乱射事件」とか「苦役列車」とか。とりわけ「苦役列車」の90年代感はリアル過ぎて息苦しくなる程でした。)だから、舞台を90年代にして描くことは簡単に出来たと思うし、その方が内容との整合性も取り安かったと思うんです。でも、それをあえてやらなかったということは、今の時代にこの正義感や純粋さを問うてみたかったってことだと思うんですよね。ただ、問えば問う程時代による安易な答えが用意されていっちゃって、なんかモヤモヤすると言いますか。(原作にはないあのラストなんかは、そういう安易な正義感をぶち壊す様な行動とも思えるわけです。個人的には。)だから、この映画でほんとの意味で僕が共感出来たのって現代社会で生きるってこと(つまり、孤独になること)を受け入れている左近(佐藤健さん凄く良かったです。)だけだったんですよね。

山下監督の挑戦的な作りの作品でもあるので面白くないことはないんですけど、何て言うんでしょう、今の時代に純粋を描くのは本当に難しいなって思いました。もしくは原作を読んでから今までの間に単純に僕が嫌な大人になってしまったってことなのかもしれませんが。(いや、でも、原作の右近は当時読んだ時よりもよりかわいく感じたんですよね。)

http://hardcore-movie.jp/


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