見出し画像

【コラム】「人と同じ」を問うセンス #007


■センスの振れ幅


才能やセンスには誰もに振れ幅がある。
たとえばプロサッカー選手のサッカーの才能は平均的に「上の中」で、メッシやクリスティアーノ・ロナウドが「上の上」に位置するのだと思う。
一方素人の中にはボールを蹴るだけで空振りするという『サッカーのセンスが壊滅的にない』人もいるだろう。
われわれはメッシと空振りの中間のどこかにいる。

同じことはモノの考え方のセンスにも通じる。

ある考え方にはセンスがある人がいて、その同じ人が別の考えにはセンスがない。得意分野と不得意分野がある。
「センスがある」と言ってもどのくらい高くあるか、「センスがない」と言ってもどのくらいないのか、これも人によって違う。


■人と同じを嫌うセンス


人と同じことをよしとする人がいる。一方で人と同じことを嫌がる人がいる。
人間は社会的動物なので基本的に周囲に同調しようとするし、する。
個性の立つフランス人は自分の意見をはっきりと言い、人の意見をなかなか受け入れない。しかしだからといって、彼らが人と同じことを嫌うわけではない

なぜならフランス人全体の傾向が『人とは違う自分の意見を持ち、簡単んには人の意見を受け入れない』からだ。「みんな」がそうなら、みんなと同じことをやっているということになる。

ある集団の常識や特徴的な傾向に疑問を持つ人と持たない人がいる。
疑問を持つセンスがある人は、日本人として生まれれば同調圧力に疑問を持つし、フランス人として生まれれば個人の意見の尊重に疑問を持つ。
あくまで「疑問を持つ」ことがポイントで、反抗するとか対立することは含まない。

『疑問を持つ』というのは、一面では素直ではなく受け入れない。すぐには信じない、肯定しないなどネガティブなイメージがある。
反面、物事の本当を知ろうとする様子、問題を見逃さないという慎重さとスタンスも感じる。
何も意識がなければセンスは発揮されない。
物事に疑問を持つことができるというのはその道にセンスがあるということだ。

ではなぜ人と同じことを「嫌う」必要があるのだろう?


■可能性を試す、世界を知る


高校生のとき、バイクに乗ろうと思った。中型二輪の免許を取ってバイクを買った。
バイクそのものが好きだとか、ツーリングが楽しいとか、あまりそういうことはなかった。ならなぜバイクに乗ったのかというと、今の時期にできる未経験、未体験を経験にしたかった。つまり自分の可能性を試してみたかった。
何ができるのか。何ができないのか。

バイクはローンを組んだ。バイトをしていた。
そのバイクはアニメのAKIRAに出てくるような近未来系の外観で、名古屋の会社がカスタムして作ったオリジナルだった。ローンを組んで140万程度になったと記憶している。

大学には絶対に行かない、こんな勉強に何の意味もないと思っていたから、高校を卒業して外国に出た。オーストラリアで半年過ごし、バンコクに住んで働き、イギリスに留学した。終わってみたら4年経っていた。
そこから貧乏生活が始まる。
人が当たり前に車の免許を取ることが金銭的にできなかった。できることは「今この若くて貧乏な時期にしかできない第一次産業を経験しよう」「第二次産業を経験しよう」だった。
外国に住んだのもそうだったけど「世界を知ろう」とした。

つまり若い頃から人と違うことをしてきた。
みんながしていることを羨ましいと思ったことがなく、みんなと一緒にいれば満足すると感じたことがない。ましてみんなに合わせれば上手く行くなど一度も思ったことがない。
悪く言えば社会不適合者で、良く言えば自分があると言えるかもしれない。

つまりは【人と同じを嫌うセンス】とは、可能性を探ることを可能にするセンスだ。そして約束された成果を早く出すことによって安心するような物事ではなく、世界を知るという寄り道によって見えるものを広げさせる要素でもある。


■3億を手にしたら生活が壊れる!?


長く人の強みを発掘したり、強みだけではない個性の特徴を見てきたりして、資質のカラーバリエーションの多さと強さ、素晴らしさを人よりも知ることができたと思う。

だが同時に「残念に思う」ことも少なくなかった。

まだ使われていない強力な武器があることが明らかになり、まだ見ぬ優れた素晴らしい人格があることが発覚し、今はまだ弱くしか使われていない尊敬すべき価値があることがわかっても
それらの武器や宝石や尊さを自らゴミ箱に捨てる様を見てきた。それもウンザリするほど見てきた。

目の前に3億が積まれ、それが自分のものだと明らかになってすぐ「いや結構ですいりません」とする・・・といえば伝わるか?

なぜそんなことをするのかというと、理由はいくつかあるし、どれも本当だと言える。
だが、端折って乱暴に言うなら

『3億なんて手にしたらこれまでの生活が壊れるからいらない』

だ。
無論根拠がなければ、豊かになることもない。
やっていることは、ただただ機会損失しただけだ。
実際に損はしていない。これまでと比較して。だが「可能性を可能に」「見える世界を広げる」機会を自分で打ち捨てるのだ。

つまり人と同じであろうとする前提そのものが、個性をいかすことと180°真反対にあり、これまでと同じ自分を維持させる。
「人と同じを嫌うセンス」が欠落している。


■世の中の方法が自分の生かし方を教えてくれることは絶対にない


多くの人が自分らしくやっていきたいと願っている。
そのために自分を知ろうとするし、問題を解決しようとする。
資質が明らかになったら使ってみようとする。

そして結局、人と同じであろうとする

このため自分らしくやっていくことはない。絶対にできない。

なぜなら個性や資質はどれも「人と違った突出したカラー」だからだ。そうでないものは個性ではなく人間性の範疇に入る。
人と違う自分を上手に扱うのに、他の人が上手くできている方法は参考にすらならない。

世の中の方法論に自分を生かすための方法はひとつもない。

このことがわかっていない人が多いと思う。
なぜわかっていないかと言うと、人と同じであることを嫌ってこなかったからだ。人と同じであることを良しとしながら、人と違う特別な何かを輝かせることはできない。

尖った個性を生かすためには、その個性が特別に生かされるための方法が必要になる。
世の中を探しても答えがないので自分で作り出すしかない。作り出すには試行錯誤が必要だ。これまでの経験や実績は何の役にも立たない。世の中で素晴らしいとされている方法はむしろ邪魔になる。にしかならない。


■今からでも、どれだけ人と同じことを嫌うことができるか


じゃあどうすればいいのか?
試行錯誤し続ければいいのか。答えはYESだが、前提になる考え方がある。
それがつまり「可能性を試す」「世界を知る」の2つだ。

可能性を試すというのは、他にはない物事は扱いをいろいろやってみないことにはどのような有用性があるのかわからない。今の仕事に当てはめて使えば便利になるかもしれないが、それは断片的でしかない。
世界を知るというのは、尖った資質がどこで通用するかいちから探り直すということだ。そもそも尖っているということは、世の中に当てはまりにくいということと同じ意味がある。現状から動かず、場を探さずに上手く扱えるようになることはない。

わざわざそんなことをしたくないな、面倒くさいと思うのはつまり
「人と同じであれば楽だし、みんなが認めてくれるのだからそれでいい」が勝っているからだ。これを覆すのが人と同じを嫌うセンスになる。

そしてどのような物事にもサッカーのようにセンスの振れ幅があるように、人と同じことをどれだけ嫌えるか?にもセンスの上下がある。
センスがなければ意識を維持したり、実践を継続することも難しい。そういう人はどのように素晴らしい武器、宝石、尊さを持っていようが「持っていないことと同じ」にならざるを得ない。

センスがなければ努力することもできる。人には努力という武器がある。

センスがない分野でもしぶとく生き残る人はいる。そういう人は人一倍努力する。無駄な努力が何も生み出さないばかりか自分をその分野に縛り付けるのに対して、自分自身を生かすために行う努力は全て人生の糧になる。

自分を十全に生かしたいと願うだけでなく、実際にそうであろうとするなら「何をすればいいか」を考える前に、あるいは実行する前に『どれだけ人と同じことを嫌うことができるか』を持つ必要がある。
このことを知らない人は少なくないが、知ってなおそうしない人は多い。

家族の圧力で留学しようにも諦めてやらない人が、英語を生かした仕事に就くことが自分のやりたいことだ、など本来の求めではないということだ。
自分を殺して人に合わせる人が素晴らしい人であるはずがない。



オンラインサロン「4ポジクラブ」やってます。
最新理論をライブやzoomなどで。


この記事が参加している募集

フォローやシェアをしていただけると嬉しいです。 よかったら下記ボタンからサポートもお願いします。 いただいたサポートは大切に松原靖樹の《心の栄養》に使わせていただきます!