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コラム【可能性のフロンティアは「どちらでもない」ところにしか残っていない】〜後編「諦めの状態」とは? #019

前編↓とワンセットでどうぞ。



■「諦め」の本質


「諦めていることを挙げてみてください」と質問すると、ほとんどの人が過去求めていたけど、手に入らないまま今に至ったものを言う。
たしかに間違いではないけども、かなり正確ではない。

たとえば「若い頃留学したかったけど、結婚したので行けなくなった。今でもちょっと心残りがある」と言ったとしよう。
その諦めは「できなかった」ことと、そのことに「やりきれてない感(未練)」がある。
この2つの条件がワンセットになって【諦め】だと多くの人が誤解している
これは「心残り」であって「後悔」だ。つまりひとつの悪感情の種類でしかない。

真に諦めているものを私たちは思い出すことすらできない
そこに感情の動きはない。動かしようもない。考えることも感じることもできない。
諦めとは「ないことになっているもの」のことだ。本当はあるが、過去のどこかの時点でないことになっなった。綺麗さっぱり存在感を消されてしまったものだ。

「若い頃留学したかった」という想いは忘れられていない。感情を伴って今も心に燻っている。こういうものは諦めきれていない。万が一にも再燃の可能性があり、やり方を考えれば到達できる範囲に残っている。
だから未練や心残りで覚えていられる。


■「諦め」のメカニズム


子供の頃は世界のことを何も知らない。家や親という狭い世界の、いくつかの物事の中で生きている。
成長するにつれて学校というより外の世界に出かけ、学習をしてさまざまなことを知る。体を使って経験する。社会人になると学校世界とはまた別の、世の中を回している歯車の世界に出る。そこで別の経験を積み、技術を身につける。こうして私たちは少しずつ知見を広げる。

幼い頃は可能も不可能もなかった。ただ未知だけがあった。大人から見て「子供だから不可能」だと思えることも、本人にとっては未知だ。
成長し社会に出ると「できること」が増える。同時に「自分にはできないこと」も認めざるを得なくなる。体力があればスポーツができるとわかり、体力がなければスポーツは苦手になる。
この「できること」が可能で、「できないこと」が不可能だ。

可能と不可能は「未知の経験」の中から自分のものになったり、現実になったりして選り分けられる。
もはや何も未経験で上手くできなかった頃の自分ではない。不得意(不可能)なことは極力相手にせず、得意(可能)を生かして仕事をしていこう。そんなふうに考えるようになる。そして『可能を生かす経験年数を重ねる』と、自分はこのために生きているのだな・・・・と錯覚するようになる。

幼い頃にあった「可能性」は跡形もなく消え去り、可能と不可能の間で毎日を過ごすようになる。
これが諦めの正体だ。


■「可能性」が葬り去られる理由


どういうことか説明しよう。
私たちはどれだけ歳を重ねても「可能」「可能性」「不可能」の3つの領域を持っている。年齢が上がるほど経験や知見が増えるので、子供の頃より「可能」と「不可能」のフォルダに情報が溜まっていく。車の運転は上手いが(可能)、整理整頓は苦手だ(不可能)ということがわかってくる。

可能のフォルダ(と不可能のフォルダ)を改めてみてみると、かなりの分量が蓄積されていると気が付く。生活や生きていく上での大半の物事はこのフォルダを開けばどうにかできると知っている。
これが人の感覚を『自分はもう可能が何か不可能が何かわかっている』と言う状態にさせる。毎日に不備が見当たらないのだから、これ以上世界を広げる必要はない。むしろ自分は生きていく上でのほぼ全てを知ってしまった!と思い込んでしまう。
このことが「可能」「可能性」「不可能」の3つの領域から『可能性』を排除させることにつながる。

可能性とは未知だ。子供が喜んで経験しようとする未熟で幼い物事だ。その証拠に未知はトライしても上手くできるかできないかわからない
ならどう考えたって「上手くできることが約束されている無数の『可能』をやった方がいいじゃないか」というのが大人の言い分だ。このため可能性・未知は「もうない」ことになる

スムーズに『ない』のだから、つまり大半の大人は可能性を諦めたのだ。
未知など存在せず、いかに可能で組み立てるか?ということをやっている人を見かけたら、それが諦めた人なのだ。


■可能性のフロンティアはどの程度残っているのか?


「可能」「不可能」で自分や人生や生活をスムーズに過ごそうとしている前提を持つ人がもし自分自身を有効に働かせようと考えるなら、真っ先にやることは可能性を取り戻すことにある。
そもそも「ある」ものを「ない」としているのだから、明らかな間違いを認めて誤認を正すしかない。

では大人になった私たちが取り戻せる可能性はどの程度残っているのだろう。可能と不可能を足した数と比較して1割程度だろうか?それとも10倍か?
エビデンスを取ることができない分野なので感覚でしか示せないが千万の単位、またはそれ以上であることは間違いない

なぜそんなことが言えるのかの理屈、理論はちゃんとある。あるが、話が違う方向に進んでしまうのでまた機会があれば書く。
ここでは乱暴に簡略化して、「可能1」「可能性8」「不可能1」としよう。

単純計算で自分が知っていることの4倍の未知が目の前に表れた。
可能性とは経験したり知覚を広げることで「可能フォルダ」か「不可能フォルダ」に振り分けられる整理前のドキュメントだ。仮に可能性8の半分が「可能」に振り分けられるとすると、現在の5倍の可能を手にすることができる。

だが実行するときに気をつけることがある。
【「可能」「可能性」】の世界で生きている人は、可能なことに焦点を当てて日々生きている。これは「可能性」の世界に踏み出す旅人の在り方ではない。
街で過ごすなら可能(不可能)を考えればいいだろう。だが旅をするなら旅の装備を整える必要がある。「可能性」という未知に踏み出すなら、できるとかできない、好きとか嫌い、やりたいやりたくない、またはその中間の「どちらでもない」を基準にしないことだ。
「未知の領域」の方が、可能不可能を包括する「既知の領域」よりもはるかに広い。これまでずっと国内で生きてきて国外に出たことがない。しかし何十カ国に行くことが決まった。ならやることはいかに日本の生活を守ることができるか(上手くできる・可能)ではなく、日本の生活を脅かされることにアンチするか(不可能の対策)でもなく、そのまま飛び込むことだ。
好きも嫌いも、いいも悪いもない。
子供がやるようにやる。子供にも好き嫌いがあるから、未知の全てを笑顔でやるわけではない。知らないことに知らない顔でなんとか取り組む。それを同じことをするのがつまり【可能性を開く】ということだ。

そしてそれができている人は可能性を開くと同時に、自然と諦めた自分を取り戻すことになる。


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