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なぜデビッド・フィンチャーの復讐の描き方は痛いのか?

デビッド・フィンチャーといえば復讐であり、それはそれは痛々しい。
単にグロテスクと一蹴するも良し、しかし過剰なまでの生々しい痛覚映像化の手腕は天才的である。
ドラゴン・タトゥーの女の例のシーンは言うまでもなく、ファイトクラブの社会への復讐としての裸の暴力とビルの崩壊シーン、ソーシャルネットワークの友人を失う瞬間、ゴーン・ガールの馬鹿な亭主の醜悪なバカさ加減・・・ただ身体的な痛みではなく、様々な「痛み」といて反応してしまう感覚をリアルに描く。
それは復讐とは痛みの先にあるものだからである。

ドラゴン・タトゥーの女の例のシーンは単純な報復ではなく、男性の権力に対する女性の復讐であり、それは社会において当然とされている厚い壁を越える瞬間を描いている。
リズベットは越え、ハリエットは逃げざるを得なかった。
リズベットの復讐は、あの後見人だけでなく、彼女の父親やその他大勢の男性性という巨大な壁を越えようとしたからこそ肉肉しいまでの暴力を伴ったのである。
デビッド・フィンチャーの復讐とは、「周知の事実」に囚われている者、いや囚われていることすら意識していない世間への復讐であり、それは盲目的な安住から抜け出るA→Bを丹念に描きたいからこその肉肉しさなのだ。

ファイトクラブはタイラー・ダーデンというすでに囚われていない者を通じて、実は囚われていることを意識していないと自己を欺いていた自らへの自傷行為であった。
タイラー・ダーデンを殺すことは、A→Bの最終工程であり、「僕」は自分を囚えていた社会からの決別とそれに甘んじていた自己への復讐であったのだ。
A→Bは何も正しいことでもなく、もちろん悪でもない。
Aという地点に囚われている/囚えられている状態へ復讐という痛みを伴う逃亡をすることとは、Bという理想へのシンプルな移動である。

ソーシャルネットワークは学生あるある的なおふざけがいつの間にか巨大ビジネスへと転じ、気づけば巨万の富と引き換えに友人たちを失うというストーリーである。
しかしそこには古き良き道徳教育臭はなく、ニーチェが唾棄する道徳的メシアにすがりながら自らの権利だけを主張する社会に囚われている「元友人」たちへの復讐を描いている。
ここでいう社会は、抑圧的な社会ではなく、社会の持つ権威への挑戦である。
社会の二面性は、愛だ平等だ自由だ権利だと謳いながら裏では弱肉強食の権力闘争を煽ることで社会が成り立つという事実である。
ソーシャルネットワークの主人公は、カネに目がくらんでいるからこダブル・スタンダードに陥る愚鈍な庶民への権力を使った復讐であり、最後の一抹の罪悪感らしき描写は道徳的な啓蒙ではなく過去への郷愁である。

ゴーン・ガールはもっとわかりやすく、社会に押し付けられたカテゴリに押し込められていた主人公エイミーが、カテゴリを利用して自己こそをそのカテゴリにしてしまうというA→Bである。
良い大学に行け、親の敷いたレール、大企業に就職するといった善き社会圧とは、大衆をある一定の区画に押し込めるだけの自立装置である。
社会を維持するためにそれは存在しており、それだけの意味しかない。
いわゆる社会的な成功というのは、大衆は目標がなければすぐに飽和拡散しリヴァイアサンが訪れるという社会により「得」をしている者たちの恐れを示している。
そして人間のためにあった社会は、もはや自己目的化しており誰も止めることはできない、これこそが「周知の事実」である。
エイミーは、社会から要請されている模範的な生き方を強制され、その結果が駄目な亭主とのつまらない結婚生活であった。
エイミーの復讐は、亭主ではなく自らのカテゴリに対する復讐である。
要するに彼女は紆余曲折した挙げ句、カテゴリの乗っ取りを画策し、成功する。
エイミーはあらゆる周知の事実としてのカテゴリ(女性、妊婦、エリートetc)を何の迷いもなく駆使することで誰にも疑われることなくカテゴリの乗っ取りを行ったのだ。
その最大の見せ場は、駄目亭主が買ったとされる倉庫から出てきたゲームやガジェットや趣味の道具たち。冷静に考えれば、あんなに多様性のある消費をする男などいないはずであるが、あの消費物のすべてが見事なまでに世間が思う「男が好きそうなモノ」なのである。

社会への復讐の過程(A→B)を描くことにより、その周辺の「囚えられている人々」への影響をブラックユーモア満載で捉えつつ、復讐の瞬間にある生々しく肉肉しい痛みはキリスト教的苦行であろう。
セブンを筆頭にやたら聖書のモチーフが散りばめられていること、そして血や肉、感情的な別離といった苦しみの先にある微かな光へ群がる虫のような習性。
デビッド・フィンチャーの世界観は、社会への皮肉とそこに囚えられている人間への侮蔑、そこを越えることへの恐怖と不安、そしてその先には新たな地獄を垣間見せる。
しかし、その地獄は苦しみの果てに自らが勝ち得た場所であり、頬を撃ち抜いて崩壊するビル群を眺める僕や、権力の座から過去を郷愁する顔本のあの人や、革ジャンを投げ捨てるリズベットや、カテゴリを所有したエイミー(と絶望する駄目亭主:ベン・アフレックの名演)の清々しさこそが復讐とは何かを見事に書ききっている。
総じていえることは一つ、デビッド・フィンチャーは絶対に性格が悪い(笑)


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