見出し画像

『ミッドサマー』は現代だからこそ受け入れられるバズるオカルト民俗学

ミッドサマー』はベタなオカルト民俗学だ。

令和のこの時代だからこそオカルト民俗学であるとほんわか認識してもらえたわけで、これはジェネレーションギャップの輪廻転生をすかさずすくい取ったマーケティングの勝利であろう。

オカルト民俗学というのは、オカルトレイヤーの幾分深いところにあるオカルト趣味分野だ。

オカルト趣味は、全人類共通の興味の対象としての磁力が強い。

理由は簡単で、すでにユヴァル・ノア・ハラリが語っているように、人間は認知的不協和気持ち悪い族であるからしてお察しなわけで。

認知的不協和、それはいきなり空がピカッと光って時間差でゴロゴロゴロってなるやつを「怖がることはない。あれは神様が怒っているだけだよ。生贄を捧げれば治まるさ CV:石田彰」とでも囁いてもらえば落ちつくあれである。

オカルトとは、そういった超常現象にある程度落とし所をつかせる行為であって、人間本来の認知的嗜好に寄り添ったものである。

では、この科学万歳時代において何故オカルトがもてはやされるかといえば、それは無理矢理にでも認知的不協和を作り出す人間のエゴだよそれは!である。

そう、エゴなのだ。

聖書の教えが、孔子の教えが、ばあちゃんの知恵袋が、いつしか科学に取って代わった。

科学的根拠=エビデンスとは、現代の聖書なのだ。

しかし、科学というのは無機質であり、ドラスティックで鼻につくエリート臭がするではないか。無知蒙昧なソクラテスに人参食わせちゃうぞ民はこの完全なる数学的調和に対する抵抗としての認知的不協和あら捜しを本能的に行っている。

科学万能主義にすら掬えない認知的不協和こそ、残された未完成=フロンティア、まさしく希望なのだ。

ソクラテスを拷問にして「消費税撤廃、原発反対、憲法改正、宇宙軍創設、太田光を総理大臣に!」なんて言わせても飽きたらないのが人間のエゴである。

エゴは故に科学ですら入り込めない認知的不協和を探し出し、すべての地図は埋まっていないと宣言する。

そうして生まれたのがオカルトである。


宇宙人、たぶんいないだろうがこんなに宇宙が広いんじゃあねえ

ビッグフット、たぶんいないだろうがヒマラヤ山系って広いからねえ

口裂け女、たぶんいないだろうがポマードポマード


我々のエゴは定期的にオカルトを欲する。

戦後だけでもエリア51やノストラダムスやヘキサゴンファミリーブームみたいなオカルト騒ぎは周期的に発生した。

『ミッドサマー』はこの周期を綿密な天体観測によりピタッと当てたわけである。マヤ文明もびっくりの正確さだ。

ミッドサマーは、古ヨーロッパ的な何かと北欧の民俗学臭い夏至祭と「ベニスに死す」の美少年とエログロを、ねるねるね~るね、うまい!テ〜テッテレ〜!しただけの作品だ。

「しただけ?」そんなことをいえば、生皮剥がされてリクルートスーツにされてしまいそうだが、「しただけ」というのがポイントである。

「しただけ」は非常に難しい。

この手の映画が思想無き「しただけ」であったならば、ウィッカーマンやシャイニングのパクリでしかない。

昨今の我が国の映画産業のまるで賢者タイムに思いついたのではないかと邪推させるような「しただけ」映画とはわけが違う。

絶妙な「しただけ」とは、リスペクトと言い訳できる程度のオマージュ(参考:タランティーノ)、リンク先を匂わす程度のオカルトワードチョイス(参考:TV版エヴァ)、そして近親相姦的なタブー(参考:レヴィ=ストロース)が抜群の調合によって生まれるのだ。


これで、中二病患者は一発ノックアウト、曙のように崩れ落ちる

そして悩める現代人、やたらストレスや不眠アピールをするOLなんかも一撃必殺、フランシスコ・フィリオのパンチでも喰らったかのように吹っ飛ぶ。

さらにSNSで得体の知れない何か感を醸造することで、SNSに人生を絡め取られたソクラテスを吊るす族は高射銃で粉々にされる


ちなみにオカルトブーム周期はスマホ時代になり完全に消え去った。

トリックに対する目が肥えた視聴者の察しと飽き、「いや、これはヤラせだろ」という感情のSNS共有、そしてトドメのYoutube。

しかし、「ミッドサマー」はこの飽きられたオカルトを古典的条件づけとして利用した。

これはとても先見の明がある。

リバイバルブームというのは必ずやってくる。今やレコードが売れまくっているらしいが、つまり「懐かしさ+新鮮味=時代的共感」の発見である。

アナログレコードブームは、便利さの追求により所有感を失ったMP3音楽に対するアンチテーゼとしての不便利の「通」感の消費である。

これは「昔は針が飛ばないように気を使って聴いたもんだぜ」という親父たちと、「アナログマジめんどくせえ〜けど、映える〜」というリバイバルブームが新鮮味となる反体制的広告奴隷な若者(例:BEAMSの店員)を手玉に取っている。

これは周期性の波の頂点を挟んだ奇跡的世代間融合であり、時代的共感という名の現実逃避だ。

この共感こそ、「ミッドサマー」の世界的ヒット足る所以だろう。

どこか懐かしく、見たことがあるような、でも新鮮で、こういうもんなのかという納得感と、根源的な認知的不協和を煽る古典的演出、そしてエログロ。

なんか70年代の日本映画で使い古されて海に捨てられたゴミが、たった今流れ着いたような感覚。

「生きとったんかワレ!」

この感覚を映画にして、しかも世界的にヒットさせるというのは時代の読みが完璧でなければならない。3年前後してもおそらく失敗だろう。

A24はやっぱりすげえな。


ちなみに映画の内容を要約すると、「主役の女がメンヘラ過ぎてウザい」です。



この記事が参加している募集

#映画感想文

66,996件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?