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けだるい匂いとけだるい記憶

 匂いと記憶は結びついている、というのはよく知られた話だ。

 これは、どうやら科学的に根拠のあることらしい。脳には思考を司る「大脳新皮質」と、感情や本能を司る「大脳辺縁系」という器官があり、さらに大脳辺縁系には、記憶を司る海馬が存在する。人間の五感のなかで唯一嗅覚の信号だけが大脳辺縁系に直接送られるため、他の感覚よりも感情や本能、記憶に働きかける力が強いのだそうだ。

 匂いをかぐことで記憶が蘇ることを「プルースト効果」というだとか、これは恋愛テクニックに応用できるだとか、ネットを見ていると興味深い話がわんさか出てくるが、いったん置いておこう。

 もしかしたら、匂いなんて最初から関係なかったかもしれないのだ。


 
 中学三年生のとき、修学旅行でイタリアに行った。中学校の修学旅行で海外に行くなんて珍しいのだろうが、私の通っていた学校はそういうところだった。一週間ほどかけて、ローマやバチカン、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアなどを巡った。コロッセオも、サン・ピエトロ大聖堂も、ピサの斜塔も見た。ローマ教皇にも謁見したし、ゴンドラにも乗った。大人になってから振り返ると、とんでもなく貴重な体験をさせてもらったものだと思う。

 当時としては最新くらいの新しい高性能カメラを携えて、私は存分に楽しんだ。友達と大いにはしゃぎ、笑い、驚嘆した。ときには言葉で言い表すのが無意味だと感じるほどに圧倒され、またあるときは「よくテレビで見たあれだ!」と偉大な遺構を前に無邪気に喜んだ。目に映るありとあらゆる光景が、眩い宝石のようだった。

 けれど人の記憶力とは残念なもので、当然少しずつ思い出は消滅していく。今となっては、たしかに私はあの最高に幸せな時間を過ごしたのだという確証は、SDカードに入った写真データを眺めることでやっと、たしかな輪郭をもった記憶とともに戻ってくるのだった。



 百何十枚と撮ったなかから、自分で厳選した写真を収めたアルバムを作った。大半は友達と並んで写ったもの、有名な建物や綺麗な風景を写したものなのだが、一枚だけ明らかに毛色の違う写真がある。

 なだらかな丘の頂上が写真の下の方に小さく切り取られていて、右下には木のてっぺんが写り込んでいる。絵のなかのほとんどを占めるのは水彩画のように淡い水色の空で、そこにはフワフワとは言い難い、ホコリをかき集めたようにデコボコの雲が散らばっている。だがこの写真でいちばん存在感を放っているのは、デコボコ雲から何本も伸びる光線だ。ちょうど雲に隠れた太陽の光が、「ここにいるんだ」と言わんばかりにどこまでもまっすぐ手を広げ、空を、緑の丘を突き刺している。そう、「天使のはしご」と呼ばれている現象だ。力強く広がる光線と雲の影のコントラストが、えもいわれぬ神秘感さえ漂わせている気がする。

 撮ったのは、移動中のバスの中だった。窓側の席に座っていた私がふと外を見ると、空には立派な天使のはしごができているではないか。慌ててカメラを取り出し、シャッターを切った。モニターを見ると、高性能カメラのおかげで、まるで絵のようにくっきりとした写真が撮れていた。

 たぶんあのとき、私のほかにシャッターを切った者はいなかった。観光地を転々とめぐるため、修学旅行は移動時間が長かった。いくつか名所を見物して後はホテルに帰るのみという時間帯、中学生らしくはしゃいでいた私たちもさすがに疲れの色が濃かった。

 あのとき車内に漂っていたなんとも言えぬ匂いは、なんだったのだろう。車特有のビニルの匂いとほのかなガソリンの匂い、そこにどこか甘ったるい匂いが混ざっていた。付き添いの女の先生やツアーガイドさんが香水をつけていたのか、それとも生徒の誰かが制汗剤でも使ったのだろうか。一定のスピードを保って小さく振動しながら観光客を運ぶバス。ツアーガイドさんのくぐもった声、疲れて口数の少ない中学生たち、そこに漂うけだるげな空気と、同じくらいけだるげな甘さを含んだ匂い。現実離れして浮足立った海外旅行のなかで、ふと重苦しい現実を思い出した瞬間だった。私は隣に座っている友達のほうから視線を窓の外に移し、ぼんやりと窓の外を眺めた。無数の光線が広がる空に気付いたのは、そんなときだった。
 



 夢のようなイタリア旅行も、今となっては遠い昔の出来事になった。忙しなく過ぎていく日々のなかで思い出すことなど、めったに無かった。

 けれど数か月前、それは唐突に起こった。会社からの帰路、日が落ちて夜の藍色が濃くなってきた時分に、私は駅に向かって歩いていた。なんとなく湿った空気のなかを、慌ただしく過ぎ去る人や車に紛れて足早に歩いていると、たしかにあのときと同じ匂いがふわりと香ったのだ。

 あっと思うよりも先に、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。けだるげな車内と、眠気を誘うツアーガイドさんの声。口数少ないクラスメイトたちから目をそらして窓の外を眺めたこと。偶然不思議な空を発見して、急いで写真を撮ったこと。

 コロッセオを目の前にして、想像以上の大きさに驚いたこと。サン・ピエトロ大聖堂の厳かで静謐な空間に息をのんだこと。ダイヤのように輝くヴェネツィアの水面を、ゴンドラに乗りながら眺めたこと。友だちの一人がなぜか機嫌を悪くして途中から一緒に行動しなかったこと。あるとき入ったレストランの料理がとんでもなく不味くてがっかりしたこと。クラスで集合写真を撮るとき、気になっていた男の子が近くに来てドキドキしたこと。飛行機で日本に帰ってきて、帰りのリムジンバスに一人で乗ったときどうしようもなく切ない気持ちになったこと。

 バスの車内でのことを思い出すと、芋づる式にあんなことも、こんなこともあったと思い出した。それはただの映像ではない、私自身の感情を伴ったたしかな記憶だった。

 そんな出来事があってから、私はイタリア修学旅行のことをたびたび思い返すようになった。いや、正確に言えばあのバス車内での出来事をだ。感動や喜びに満ちた光の粒のような記憶の断片のなか、その記憶だけはずしっと重たい。けだるく甘ったるい匂いに包まれ、ふと我に返り重苦しい現実を思い出した瞬間。この旅行が終われば、またこれまでと同じ日々に追いかけられるのだと気づいた瞬間。現実から目を背けるように眺めた窓の外に見つけた、天使のはしご。

 バスでの記憶ばかりがやたらと思い出されるのは、あのなんともいえない匂いを再び嗅いだせいだろうか。それとも、大人になってから「社会を生きる厳しさ」を知った気がしていた自分が、本当はもっと昔から、延々と続く人生を目の前にしたときの暗澹たる気持ちを知っていたのだと、その記憶によって気づかされたからだろうか。

 まぁ、そんなことはどっちでもいい。今の私は、大人の言う「社会を生きる厳しさ」も、思春期に感じる人生への葛藤や不安も一笑に付して、「とりあえず人生おもしろがりましょうや」などと思えるくらいにはなったのだから。  

 

 

 

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