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流れ藻 11. 地獄のとき 〜四、五人目の死者〜

11. 地獄のとき 〜四、五人目の死者〜 続いて、大塚啓子ちゃんの危機が迫った。 腸炎の二才児はメチャメチャに物をたべたがる。餓鬼道におちた様に欲しがった。 啓子ちゃんの父母は饅頭を、パンを、 チエンピン(栗流し焼き)を買って、欲しがるままに与えた。 そのために死期を速めていた。 タヌキの腹とそっくりに膨れてしまったお腹。手足も、 顔も、ただ皮の張りついた骸骨となって、大きなパンをかじっていた。 流動食を、リンゴ汁をとすすめても、その父母は喧嘩腰で、 「私の子

    • 流れ藻 10. 地獄のとき 〜三人目の死者〜

      10. 地獄のとき 〜三人目の死者〜 ハルピン劇場のだしものは、生き地獄であった。 さまざまの酷い演出が繰りひろげられた。 奥地から、奥地からと人は流れ込み、ハルピンはあらゆる疫病の坩堝となっていった。 私達の一団にもまともな人間はなく、幼児は一様にハシカに侵されていた。 裕三、良子も高熱が続いた。 谷岡家三兄弟、林田家三児、大塚家啓子ちゃん、その他も衰弱を続けた。 良子は意識も殆どなくなり、乳も呑まなくなった。 脳膜炎を起こしはしないかと恐れながら、日本人

      • 流れ藻 9. おさなご昇天

        9. おさなご昇天 佐藤家次男、誠ちゃんは二才児で、ヒーヒーと終日を泣くだけになっていた。そのたびに、母親はお尻をひっぱたいた。 叱られて止められる泣き声ではなかった。 おさな子のうめきなのだ。悲鳴なのだ。こらえても出る笛の様な音なのだが… もう頬には失調の紫疹が、幾つも幾つもかさぶたとなっていた。 泣けばそこがひび割れて血が滲んだ。 それでも、 ぶたれた。 佐藤夫人は軍国の母の心根で鍛えねばと云う方針なのだったが、幼児の顔には表情も無くなっていた。 泣

        • 流れ藻 8. ハルピン

          8. ハルピン ハルピンに到着したときはやはり夜だった。 幾度も来た事のある駅頭へ流民姿の一群は降りたった。 大同広場にあるハルピン事務所にゆく事になる。 この動乱が無ければ八月十日附で私達はこのハルピン事務所に転勤の内命をうけていたのに、こうして避難民として収容されようとしている。 それまでの所長、山中氏の自宅に立ち寄り、湯茶を恵まれ、杉野夫妻を託して、一同は事業事務所のあるビルにゆき、落ちつく事にした。 笠井一家は駅頭で別れ、別行動でアジアホテルに泊まる

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          流れ藻 7. 流木

          7. 流木 流された木片の様に、これがさすらひなのか。 いつもなら頑是ない子等も、ここ数日の激変ですっかり生気はなく、黙って従順な犬の様に、この頼りにもならぬ母に寄り添っている。 良子はあまり出なくなった母乳に代わる適当な食事もないので、面持ちも変わって衰弱している。 泣く気力も衰え、それが疲れた母をいたわってくれていておとなしい。 母子寮の後に森のような木立があり、それに沿った道を、リュックを背負った人々が往来する。 この街の住人も、誰も彼も、旅人の様にリ

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          流れ藻 6. 終戦

          6. 終戦 その日が歴史に残る敗戦、終戦記念日になるなど知らない昭和二十年八月十五日。 私達は南下列車の情報を追って血まなこだった。 流言飛語ばかりの中から正確なヨミなど仲仲に下せなかった。 次々続々と各地から避難者が到着して、笠井一家の部屋を空けねばならず、病人川井氏夫妻を預けていた別棟に幾人かが移された。 私は産婦と一緒に三階の元の部屋に残された。 弁当代わりの饅頭(マントウ)作りに粉を配給して貰いに、満鉄生活協同組合に行ったり、南下のための多少の日用品を満

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          流れ藻 5. 母子寮

          5. 母子寮 その夜、大塚夫人の出産が始まった。 灯りもない、方角も知らない未知の土地で手分けして探して歩き、助産の経験者を迎えてくる者、ロウソクの灯りの下でお互いの肌着を切り裂いて、産着を作る者、寮中を頼み歩いて、たらいを、洗面器をと借りて来る者。 二部屋をあてがわれ、詰め込まれていた一方を空け産室にあて、あとの者は押入に子供を寝かせて、ぎっちりと座って出産を待った。 この時も笠井夫人だけは別に一室を占領しての別行動を当然とし、その上小さい子の世話役にと子の

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          流れ藻 4. たどりつく

          4. たどりつく 汽車はチチハルに至り、やはりチチハルに降ろされた。 長い旅を終わった解放感でホームに並んで足元に荷を置いた。 一瞬ヤレヤレとした気持ちを吹き飛ばすようにサイレンがうなり、空襲を告げた。 時間は分からない、夜だった。ホームでの急な措置に迷っていたら、スピーカーが、うまく誘導してくれて、荷物はそのまま、線路をこえる、そしてまっすぐ、とスピーカーにつれられて駅内に入ってギョッとした。 (とっくに戦争ははるかブへトに残して来たつもりでいたのに) 構

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          流れ藻 3. 逃げる

          3. 逃げる 出発用意の出来た私達一同に加えて、杉野夫人が年長でもあり、リーダーとして旅立つ事になり、社宅中庭に集結した。 それ迄は学童集団編入の手配をしているとかで別行動を望んでいた笠井家族もうまく運ばなかったものか、行動を共にする事となった。 従ってそれに誘われていた松岡文子(注: 操子の姉。仮名)も同じて、私にとって、この非常時に至って只一人の肉親の姉と共に旅するだけでも他の人より心強い筈であったが、それ迄会社側二人の男性はなにをされていたのか一向にわからなかった。

          流れ藻 3. 逃げる

          流れ藻 2. 壕

          2. 壕 全く馬鹿な、凡そおろかな、数日をそのときには、ただ必死の思いで致し方ない日々を真剣に過ごしていたのだ。するべき事がもっと他にあった筈の私達はただおびえ、おののいて、その穴蔵にしがみついていた。 一面街の郵政局で貯金を引き出し、有価証券を換金すると云う知恵も出ぬうちに局は閉鎖されていた。野ざらしで ポカンとしていた一日にこれらの手配をするべきだったのに。 壕の生活は裸の心をむき出しにした女族のみにくい蠢(うご)めきにすぎなかった。 隣組での訓練をうけたこんな日

          流れ藻 2. 壕

          流れ藻 1. 博克図から

          私の祖母室賀操子(むろがみさこ)が1945年8月のソ満開戦の混乱を逃れ、旧満洲・博克図(ブヘト)※から祖国日本へ帰国するまでの流転の日々を綴った回想録です。 ※博克図(ブヘト)の位置Manchukuo_Railmap_jp.gif (1089×1308) (wikimedia.org) wikipediaより 殺戮・病死など残酷な描写、差別的な表現、誤字等が含まれていますが、ほぼ原文のまま掲載しています。祖母以外の実在の登場人物の名前はすべて仮名です。 流れ藻 ~

          流れ藻 1. 博克図から