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流れ藻 23. 海路

23. 海路 船はV28 号と云う米貨物船であった。 一行は船底へ並べて詰め込まれた。 どうした訳か、チチハルからの一団は果物も他の食品も充分に持って乗船していた。 船の食事は朝夕二回のコウリャン粥を椀に一杯づつであった。 副食品はなくて、粥にはサツマ芋の蔦だけが二三本浮いているうすいうすい粥だった。 呑水は船の事なので毎日行列して、一人水筒一杯づつ、病人には白粥を配ると説明をきいたが、現実には貰えなかった。 船は博多の沖に着いてから二週間、沖に浮かんだまま

    • 流れ藻 22. 引き揚げの旅立ち

      22. 引き揚げの旅立ち 新陽住宅前に集結して、荷馬車に乗り込んだ。 私達はハルピンとしてはしんがりに近い引き揚げ団に編入されると云う。 出発するターチョ(荷馬車)めがけてポーミー (唐きび)売りが、バラバラと駆け寄った。一抱えもあるザルに白布に包んだ フカフカのポーミーを皆が一本づつ買って、馬車は走り出した。 ハルピン駅からは貨車に乗せられた。無蓋車だった。一箱に、大勢が詰められた。 箱のぐるりに荷を積み上げて、 その上に子供を座らせて、大人は土間にぎっちり

      • 流れ藻 21. 地獄のとき 〜孤児院・引き揚げ命令〜

        21. 地獄のとき 〜孤児院・引き揚げ命令〜 中央組ではいつの間にか、中川、佐藤、林田家の遺児達を孤児院に送っていた。その方が環境が良いという意見だったが、果たしてどうか心配なので、手分けして見に行って貰ったら、大違いであった。 放心した五才の林田康子ちゃんのたどたどしい話はこうだった。 「ここへ来たときネ 達也いたの。 達也ネ、毎日 お腹すいて泣くの。みーんなヤッコのもあげるけど 泣くの。 達也ネ お腹こわしたけど 着るもんないの。ヤッコのをネ 着せてネ  そいで

        • 流れ藻 20. 地獄のとき 〜春の訪れ、銃声〜

          20. 地獄のとき 〜春の訪れ、銃声〜 どうやら寒さのゆるむ頃、それ迄収容所と化していたモストワヤのデパート「ときわ」が難民の為の商場として開放される事となった。 早速権利を取って、一角に化粧品店を出す事が出来た。 次第に広げて、いい店舗になった。ここを専ら、男性組の商場とした。 「ときわ」へ現れる化粧品の客と云えば、ダンサーとか、バー、とかその種の女が多いので、男の居る方が、結構よく売れるのだった。 むくつけき偉丈夫三人、交代での売り子なのだった。(谷岡、中野、

          流れ藻 19. 地獄のとき 〜極寒の大地にて〜

          19. 地獄のとき 〜極寒の大地にて〜 クリスマスも正月も無い。 子等は、飢えの目で湯気の立つ饅頭を、飾り窓の蝋燭を見るだけだった。 凍死と、飢えとを凌ぐ、最低の線で、あえいでいるだけだった。 物を売る事、歩く事、と。 満人の正月(旧暦)が来ると、私達はひどく困った。約一か月は大戸を下ろして街中は休みとなってしまう。 これでは商売も出来ねばその間の食品を買い貯える金も無い。じっと凌げる貯えは何一つとして在りはしない。 水の手の切れるに似ていた。 何とかその間

          流れ藻 19. 地獄のとき 〜極寒の大地にて〜

          流れ藻 18. 地獄のとき 〜生を享ける者、つなぐ者〜

          18. 地獄のとき 〜生を享ける者、つなぐ者〜 極寒におびえて季感も月日もわからなくなっていた。 その間も良子の危機は度重なった。 アドースで洗腸して一(いっ)とき凌ぎはしたものの、粘液しか排出しなくなり、腸壁のビランの剥離したものの様な、白い膜まで出始めた。 そこへ裕三も他の子供共々水痘となった。 腸炎の余波かどうか、良子のリンパ腺のあちこちが幾つもベル状に化膿した。 首を切開して貰ったのは近くの診療所(臨時の)の土田先生と云う若い外科医だったが、後にこの人

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          流れ藻 17. 地獄のとき 〜十一人目の死者〜

          17. 地獄のとき 〜十一人目の死者〜 凍る日が続いて、林田和代夫人の危篤が伝えられた。 私に会いたいと云うことで、一日商いを止して、収容されている病舎を訪れた。 ロシア造りの彫り門があり、中の石畳を辿るとその奥の家が難民病舎にしてあった。 その一室でやっと彼女を見つけて息がつまった。 ぎっしりとサーデンの様に並べられた病人を、踏み越えて近寄ってみたら、その人とも思えぬ位に、水腫で変貌して仕舞っていた。 長い水瓜を横に置いた様で、眼が一筋に埋もれ込み、胸に

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          流れ藻 16. 地獄のとき 〜販(ひさ)ぎ歩く日々〜

          16. 地獄のとき 〜販(ひさ)ぎ歩く日々〜 林田夫人が結核と腎臓で悪化して、杉野夫妻の所へ療養に預けられる事になる。 あんなに強気で楽天家で瑞瑞しく美しい女(ひと)も病気には致し方なく、寝込んで仕舞った。 訪ねてみると少し見ぬ間にひどく痩せて仕舞った。 新陽区組の私達は日銭を得るため薬品を売って歩いた。 その毎日で感染したものか、松岡姉が発疹チフスとなった。激しい伝染力なので急いで隔離病院にいれた。 一政、四年生。和史、二年生。 二人の子が、モストワヤに小

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          流れ藻 15. 地獄のとき 〜十人目の死者〜

          流れ藻 15. 地獄のとき 〜十人目の死者〜 続いて山本夫人が、原因不明の熱病となった。この人は、ついこの春頃、花嫁として内地から渡満してきた人だった。 「十二人目の見合いの相手です」 と山本氏が挨拶に連れてこられた人だった。 この若妻は苦しい息の下で、 「 山本が来るまで生きてます  きっと山本がまいります」 とひたすら夫を待ちわびて病んでいた。 この希(ねが)いに手繰り寄せられる様に、チチハルから男子の多い一団がハルピンへ流入したとの噂をきき、調

          流れ藻 15. 地獄のとき 〜十人目の死者〜

          流れ藻 14. 地獄のとき 〜八、九人目の死者〜

          14. 地獄のとき 〜八、九人目の死者〜 新陽区の住宅へは、私達の中で病人、妊婦、子持ちが移ることになった。 林田夫人は子持ちで、ブへトからの人だったが、同行を断った。 大同広場の中央組と新陽組とに二分してのグループとなった。 中央は場所的に仕事につき易く、何かせねば暮らせぬ状態となっていて子供のない主婦は、飯店に、立ち売りに、 派出婦に、ダンサーになるといい始めた。 子沢山の中川夫人も中央に残りたいと云って、残ったブヘトからのものが新陽区に移った。 中川夫人はそれ

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          流れ藻 13. 地獄のとき 〜死線を彷徨う〜

          13. 地獄のとき 〜死線を彷徨う〜 こんな日の夜、誰もが死線をうろついていた。 病児に気遣ってうつらうつらしていたら、條條とほそい甘い唄声がした。 こんな暮らしに似もつかぬ唄は誰なのだろう。 声を手繰ってみたら、南又からの下請けの人の妻、青木さんと云う二十才の若い母で、三才の女の子を抱いて唄っていた。 蘇州夜曲だった。切なく、哀しく唄うのだった。それが楚々とした美しい声なのだ。 この女(ひと)は流れの旅芸人に育てられ字も読めないとか云う事だったが、唄は素晴らし

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          流れ藻 12. 地獄のとき 〜六、七人目の死者〜

          12. 地獄のとき 〜六、七人目の死者〜 日本人は死者を庭土に埋めて、花や菓子を供え始めた。 これをソ兵は極度に嫌った。見つけ次第、銃尻で、ムチャクチャにはね飛ばした。 そのあとを、満洲烏(カラス)が群れておりていた。 私達の小さなほとけ達は、棚板で小さな棺を作って、日本人会の葬送車を待った。 はじめこそ、霊棺車があったらしいが、そんなもので間尺に合わぬ事となったので、ターチョ(荷馬車)が死体を積み上げてつれにくるようになっていた。 これらの死人は殆ど裸でコ

          流れ藻 12. 地獄のとき 〜六、七人目の死者〜

          流れ藻 11. 地獄のとき 〜四、五人目の死者〜

          11. 地獄のとき 〜四、五人目の死者〜 続いて、大塚啓子ちゃんの危機が迫った。 腸炎の二才児はメチャメチャに物をたべたがる。餓鬼道におちた様に欲しがった。 啓子ちゃんの父母は饅頭を、パンを、 チエンピン(栗流し焼き)を買って、欲しがるままに与えた。 そのために死期を速めていた。 タヌキの腹とそっくりに膨れてしまったお腹。手足も、 顔も、ただ皮の張りついた骸骨となって、大きなパンをかじっていた。 流動食を、リンゴ汁をとすすめても、その父母は喧嘩腰で、 「私の子

          流れ藻 11. 地獄のとき 〜四、五人目の死者〜

          流れ藻 10. 地獄のとき 〜三人目の死者〜

          10. 地獄のとき 〜三人目の死者〜 ハルピン劇場のだしものは、生き地獄であった。 さまざまの酷い演出が繰りひろげられた。 奥地から、奥地からと人は流れ込み、ハルピンはあらゆる疫病の坩堝となっていった。 私達の一団にもまともな人間はなく、幼児は一様にハシカに侵されていた。 裕三、良子も高熱が続いた。 谷岡家三兄弟、林田家三児、大塚家啓子ちゃん、その他も衰弱を続けた。 良子は意識も殆どなくなり、乳も呑まなくなった。 脳膜炎を起こしはしないかと恐れながら、日本人

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          流れ藻 9. おさなご昇天

          9. おさなご昇天 佐藤家次男、誠ちゃんは二才児で、ヒーヒーと終日を泣くだけになっていた。そのたびに、母親はお尻をひっぱたいた。 叱られて止められる泣き声ではなかった。 おさな子のうめきなのだ。悲鳴なのだ。こらえても出る笛の様な音なのだが…   もう頬には失調の紫疹が、幾つも幾つもかさぶたとなっていた。 泣けばそこがひび割れて血が滲んだ。 それでも、 ぶたれた。 佐藤夫人は軍国の母の心根で鍛えねばと云う方針なのだったが、幼児の顔には表情も無くなっていた。 泣

          流れ藻 9. おさなご昇天

          流れ藻 8. ハルピン

          8. ハルピン ハルピンに到着したときはやはり夜だった。 幾度も来た事のある駅頭へ流民姿の一群は降りたった。 大同広場にあるハルピン事務所にゆく事になる。 この動乱が無ければ八月十日附で私達はこのハルピン事務所に転勤の内命をうけていたのに、こうして避難民として収容されようとしている。 それまでの所長、山中氏の自宅に立ち寄り、湯茶を恵まれ、杉野夫妻を託して、一同は事業事務所のあるビルにゆき、落ちつく事にした。 笠井一家は駅頭で別れ、別行動でアジアホテルに泊まる

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