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流れ藻 8. ハルピン

8. ハルピン

ハルピンに到着したときはやはり夜だった。

幾度も来た事のある駅頭へ流民姿の一群は降りたった。

大同広場にあるハルピン事務所にゆく事になる。

この動乱が無ければ八月十日附で私達はこのハルピン事務所に転勤の内命をうけていたのに、こうして避難民として収容されようとしている。

それまでの所長、山中氏の自宅に立ち寄り、湯茶を恵まれ、杉野夫妻を託して、一同は事業事務所のあるビルにゆき、落ちつく事にした。

笠井一家は駅頭で別れ、別行動でアジアホテルに泊まる と云うことで、以後ホテルを住居とする豪華さであった。

瀕死の病児妙子ちゃんを抱え、その上妊婦の西田夫人母子を別の所に泊めて、病人川井氏と夫人はハルピン若松町在住の夫人兄宅に身をよせる事で別れた。

大同広場のビルに到着してみたら、事務所には、もうその時、四家族が先着していた。

図もん(ともん)、牡丹江、 桂木す(ちゃむす)、南又(なんさ)からで、下請けの家族も混じっていた。

佐藤、中川、坂本、青木、母子達で、人数が増したので 事務所にゴザを敷き、机の上に子ども達を寝かせての合宿体制に入った。

こんなにしてハルピン第一夜が始められた。

先着人の話では、ガスは夜中だけ出る。水道も同様。それで夜通しで炊事と洗濯、飲料水貯めを行う、と暮らしの方法を伝授された。

三日目だったか、西田家 妙子ちゃんが亡くなった。賢い三才児だったのに。

私達一行の最初の死者を見送った。

真似だけの葬いをしたのだが、私は良子の衰弱で出かけなかった。

食事は、お粥と雑炊に決まっていた。

危険を犯さねば、饅頭(まんとう)も他の食品も手にいれる事は出来なくなっていた。

事務所の窓はすべて三重に閉じた上を更にバッテン、十文字に木を打ちつけて敵人の侵入を防ぎ、暗い灯りで、多 勢の人間が生活した。

消耗を防ぐために、じっとしているに過ぎない。

それでも、赤ん坊は泣く。幼児はわめく。動き回る。

誰も、どの子も、目に見えて衰弱してくる。

光もなく、空気もよごれ、食も乏しければ、衛生などムチャクチャとなる。

それ迄の疲労、無理が親をも子をも襲い、発熱する者。うめく者。

この世の地獄の序幕はこうして始まった。

ここでの寝具を、食品をと、会社関係筋を奔走して貰ってはいたが、やっとたべる粥が精一杯の大家族となり、続々と病人が増える一方の有り様だった。

外部の治安は言外で、何時ソ連が立ち入って来るかも知れず、食料漁りの街角から、日本人の男はすべて連れ去られる毎日となった。

うっかり出てもいけない有り様だった。会社関係の人も寄りつけなくなった。

ここでの男性は大塚氏と室賀(注:著者操子の夫) の二人だったが、軍籍をはがされた元主計中尉殿はただの子守となって仕舞って、自分の子以外のことには一切手を貸す気はなく、無関係の人となり果てた。

その内、ハルピンにソ軍囚人部隊が突入して仕舞った。

鬼気迫る事態が至るところに展開した。

どのホテルも占領され、女と名のつくものはことごとく 泣き叫ぶままに拉致され、汚され、殺された。

それだけでは済まない。民家に押し入って手当たり次第に略奪された。

助けを求める人妻を辱める。(その夫の目前で)そして殺す。

悲鳴を聞きつけて助けに来た夫を射殺する。(妻の前で)

娘が連れさられる。
父が射たれる。

邪魔者は殺す。
欲しいものは奪う。

女、金、時計、ラジオ、万年筆、砂糖、どれにも彼らは飢えていた。

幾千、幾万の狼の群れだった。

街単位で、十六才以上の女の人身御供の割当まであり、 無理に行かされた者は再び生きては帰ってこなかった。

男狩りと云うものが始められた。

日本人の男達を置くと、かたまれば何をやるかわからんと云う恐れのために、男は狩り集められた。

街角から、乗り物から、道路から、家からと、男(日本人)と見れば連れ去られた。

そしてシベリアへ、牡丹江へと送られる。

何とかしてのがれ、かくれしたものだけが残る日々だった。

こんなある日。

ドア、窓がたたき破られ、

「ダワーイ」

と囚人兵が七八人、なだれこんだ。

素早く電線を切断して、室内を物色し始めたが、立派な建物とは裏腹な避難生活の集団を見渡して、 めぼしい品もありそうもないので、二三の時計を所望した。

ひとかたまりの子持ちの女達を哀れに思ったのか、乱暴には出なかった。

「喉が乾いたから水を呉れ」

と云うのと同じ当然さで、

「あのマダム呉れないか」

と云い出して、一人の奥さんを指して、室賀に交渉を始めた。

あれは他人の奥さんだから駄目だと断ると、

「何故だ、君のでなけりゃかまわんじゃないか」

と云う。

子供の母親だから止して呉れ、と云うと、

「では女を世話しろ」

と迫るので、常々ビルの上階に逃げ込んで住まっていたダンサー達が居て、ダワイが来たら捌いてあげる、素人の方は気の毒だから、という奇特なグループが居たので、兵に教えて、私達は無事にすんだ。

去りぎわには

「モストワヤにはドレス売っているから、君マダムに買ってやれよ」

と云って去った。

哀れな私達の姿に対しての鬼の涙なの か。

この冗談も、ロシア語の分からない主婦達には、もう恐ろしくない様子と、笑顔で兵に近づく人も居て、冷や汗ものであった。

ある日、街角で男狩に出会って、室賀も連れてゆかれ、列の最後尾に並ばされて歩かされた。

室賀は両側を守る兵に歩きながら、私達の避難状態を話し、

「自分が食料を都合して帰らねば、多数の母子は死ぬばかりだ。見のがしてくれ」

と、 曲がり角に来たとき列から離れて歩いたら、兵にも情けがあったのか、追われなかったと、幾らかの食品と共に帰ってきた事があった。


こんな日々の連続で事務所内は、病人が次々と山積しはじめていた。

(9. 「おさなご昇天」に続く)

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