流れ藻 14. 地獄のとき 〜八、九人目の死者〜
14. 地獄のとき 〜八、九人目の死者〜
新陽区の住宅へは、私達の中で病人、妊婦、子持ちが移ることになった。 林田夫人は子持ちで、ブへトからの人だったが、同行を断った。
大同広場の中央組と新陽組とに二分してのグループとなった。
中央は場所的に仕事につき易く、何かせねば暮らせぬ状態となっていて子供のない主婦は、飯店に、立ち売りに、 派出婦に、ダンサーになるといい始めた。
子沢山の中川夫人も中央に残りたいと云って、残ったブヘトからのものが新陽区に移った。 中川夫人はそれからまもなく気が狂ってしまった。
この人には四人の子があり、六才の子はどうした事か、両手とも指が四本づつしかない不具だった。
四人の子に小魚を小魚をと、バザールが開いてからの中川夫人は魚屑をあさってきては、雑炊に煮込んで子等に食べさせた。
たべものが、栄養が、とあたりで死ぬ子等を省みて、自分の子の栄養を考え抜いて、懸命に魚を魚をと食べさせた。
その魚入り雑炊を、四本の指で箸をうまくあやつって、 小さな長男は弟達に食べさせる、奇怪な可哀そうな姿だった。
じっと見ていて突然その母は表情を止めてしまった。それきり、子等を払いのけてボウルを抱いて出て云ってしまった。
それから毎日、その母はボウルを胸に、家家をたたいて、さまよい歩くのだった。
「ご飯ください。ごはん一杯いれてください。」
母さん母さんとすがりつく子を怪訝に振り返るだけで、これが狂った母の姿だった。間もなく病院に収容されたがそのまま衰死したのだった。
子のために食をこばみ、子等のためにと「めし」のまぼろしを追いつづけて、飛雪の中を天まで昇ってしまったのだろう。
八人目のひとが死ぬ。
中央へは、ブヘト街民と一緒にモストワヤのデパートを仮収容所として入れられていた会社の家族の、山本、長谷川の二人が逃げてきていた。
新陽組はリュウマチ妊婦、病児と動きが取れなかったが、 全員の手持金が、合わせて十三円九十銭になると、じっといては居れなくなった。
僅かその日のコウリャンを買って、いよいよつまってきた。何からでも現金を得る事をせねばならない。
最初、谷岡夫人と私の二人で行商に出た。メンソレターム、 クレオソート、ツカモト、ノーシン、薬品類の委託販売を始めた。
松花江(スンガリー)の畔りで初めて売上の銭を握って泣いた。
覚束ない満語をあやつり、物を売る。情けないが仕方無い事。唇をかみかみ歩いた。恥に慣れるために、シャニムに売り歩いた。
意外に仁丹にメンソレータム、ノーシンの売れるのを知った。
道里へ、モストワヤ へ、キタイスカヤへと進出した。
そこへは大勢の日本人が同じ姿であふれていた。道端に品物を並べて売っていた。
私は歩いて歩いて物を売った。
その頃、中央組の佐藤夫人が肺炎となった。皆で看病したが、悪化する一方だった。
その頃の特効薬 はトリアノンだけだった。トリアノンがあれば助かるかも知れない。誰もがそう考えた。
十六人で小銭を出し合って、やっと三本のトリアノンを手にいれてきた。
それで少しは持ち直したものの、しょせんは注射の切れ目に結局は死んで仕舞った。
(もっと金が薬があったらと悔やんだ)
遺児浩介君、富子ちゃん二人の子を子供の無い奥さん方に連れて貰う事にして、遺品を二分する為に、皆が立ち会ってトランクを開いて唖然とした。
底の一列はトリアノンがぎっしり詰まっていた。
その他高貴薬、毛織生地が、これは夫君が軍医務関係であったので非常用にと用意されていたものと思われるが、手元にあるならどうしてそれを使わなかったのか。
死ぬとは思わなかったに違いない。
軍国の母、将校の妻としてまだまだ先々のためとしっかりしている積もりだったのだろう。
それとも自分の亡い後、 子等への遺品(かたみ)とする心根だったのか。
死人に口は無く
特効薬に埋もれて
九人目の人が死す。
(15.「地獄のとき 〜十人目の死者〜」に続く)