見出し画像

流れ藻 13. 地獄のとき 〜死線を彷徨う〜


13. 地獄のとき 〜死線を彷徨う〜

こんな日の夜、誰もが死線をうろついていた。

病児に気遣ってうつらうつらしていたら、條條とほそい甘い唄声がした。 こんな暮らしに似もつかぬ唄は誰なのだろう。

声を手繰ってみたら、南又からの下請けの人の妻、青木さんと云う二十才の若い母で、三才の女の子を抱いて唄っていた。

蘇州夜曲だった。切なく、哀しく唄うのだった。それが楚々とした美しい声なのだ。

この女(ひと)は流れの旅芸人に育てられ字も読めないとか云う事だったが、唄は素晴らしく旨かった。

やりきれなくなると、このひとは唄った。 私達は泪を流してそれをきくのだった。



そうしている私達の仮の巣を何かの事情でソ軍に明け渡すこととなり、隣の小さいビルに移された。

そこは一層せまく、蚕だなを作って汽車の寝台式に雑居する生活となった。

そこで会社関係の中村夫妻とその知人北原姉弟と合流した。



良子のハシカは脳膜炎をまぬがれたが、腸炎に移行していた。

その方に気を取られて、軽く終わったつもりの裕三のハシカの予後は、どこからかジフテリアを感染していた。

もしやと覗いた咽(のど)に白い偽膜がつきはじめていた。

ゾシーンと恐怖が躰中を駆けめぐった。

あちこちですでに咽笛をならせてキリキリ舞いして死ぬ子の噂を耳にしていた。

あわてて日本人会医局へ走った。そこの診断も正しくジフテリアとの事で、膝がガクガクとふるえて立ちあがれなかった。

裕三は土色の顔をしておとなしかった。

これまで育てた子をこれで死なせるのだろうかと恐れに凍りついてしまった。

南岸地区の外れにソ軍に占領された元陸軍病院がある。 そこへ行く事が出来れば「血清」がある筈だ。

但し行く途中も、行ってからも危険で生命の保証はせぬ。そこで血清をせぬ限り街にはないと云う話で、その帰り満人医に聞いたら

「同じ様なものがある」

と云って得体の知れぬ注射をして、凄い金額だけとられたが、気休めにしかすぎない。


その日、私達の一部を移すため旧知をたのみ新陽区に住宅を都合に出かけている父のもとにと、鉛色の裕三をマーチョ(馬車)に乗せて走った。

そこ、新陽区の医務班にも診せたが、ジフテリアの子を連れての移住は駄目だと断られた。

その医務班にはリバノールしかなかった。

一刻を争えず、お金もなく、ボストンに詰めていた牝狐を一匹売った金で馬車をやとって、南岸の病院を探しに走った。

そこは随分遠かった。

道には人っ子一人歩いてなくて、ソ兵だけ、銃をかついで靴音高く往来していた。

病院の門には十人程のソ軍衛兵が居て、私の差し出す日本人会証明書をあらためられて内部に入れられた。

意外にも内部は日本人医者ばかりで日本人病人が多く居た。

伝染病棟で主任医に面会したら、幸せなことにジフテリア専門医だった。

血清はあった。これで一昼夜異常をみねば助かるとのことで入院となった。

規定には二才児以上は付き添えない。連絡も出来ない。三週間したら引き取りに来る事。生死はそれ迄分からないきまりになっていた。

入院室には大人、子供まぜて二十人余りの患者が寝たり座ったりしていた。ベッドはキチンと清潔だった。

五才の裕三は、なりゆきをあきらめてか、度胸があってか、泣きもせず、淋しがりもせず、一人で入院する事を承知した。


翌朝まで心配で心配で眠れず、夜中から粥を炊き、飯盒に入れて、良子を松岡(姉)に預け、夜が明けると蚕棚を出て、病院に向かった。

満人服の綿がはみ出して、満靴でボコボコ歩いた。

歩いて歩いて南岸へ向かった。途中で少しのビスケットを手に入れて、休まず女の歩みで、昼過ぎ、やっとその病院にたどり着いた。それ位の距離だった。

門をくぐりかけて、七八人の兵に銃尻で遮られた。日本人会の証明書がないからだった。

片言のタドタドしいロシア語を並べて、

「私の子が死にかけている、この粥を飲ませてやりたい、きっとまだ生きていると信じている、見たいのだ、それだけだ」

と懇願したら兵達は顔を寄せあっていたが、サーッと散って仕舞い、一人が顎で

「行け」

としゃくって見せてくれたので走り込んだ。
こんな日本人の哀しい母の姿を、親心を汲んでくれる心が兵にもあったのだ。



裕三は生きていてくれた。 ベッドにチョンと座っていた。
喜びの目を見開いて意外な母を迎えた。
そして一番先に、

「母さん、この子さっきまで生きてたんだよ」

と隣のベッドを指した。

そこには裕三より少し年下の小さい男の子が半眼を開いて死んでいた。(一人っきりで)

裕三は生き続ける事が出来る。こんなに嬉しい事はない。

粥をすすって裕三はビスケットを近くのベッドの子にもあげて欲しいと云った。

こんなに食べるものに不自由している時に、人の喜ぶのが好きで、ロのキレイな子だった。

一寸でも長く居てやりたい母に、

「良子どうしてるダロ。泣いてるよキット。母さん帰ってヤンナサイ。」

と妹を気遣っている。五才だというのに小さくても兄をわきまえている子なのだった。 病の身で、きき分けが良すぎては、早死にせねばいいが と杞憂がわいて来る位だった。

その帰りに、門前で日本人会医局から派遣された三人の看護婦さんの馬車を見た。 歩いて歩いて医局に辿り着いたら、さっき徴発されていった看護婦さん達が門番兵によって辱められて、その内一人は自殺したと急報が入っていた。

母親の私には情けを示してくれた兵達も、やはり獣でしかない、恐ろしい事、と思った。一人だけ白い看護服の女が居た。自殺したのは、何故かあのひとかも知れない気がした。


三週間一人で裕三は入院して、退院を迎えた。ビタミンや各種投薬が効いて、肥り元気そうになっていた。

病院では、病気は快くなったが、シラミがついているから帰ったら身ぐるみ消毒して、当分繰り返すよりしかたないと云う事で、連れて帰ってみるとなるほどシラミは至るところに産卵して繁殖していた。

シラミは発疹チフスを媒介する。裕三だけではない。街中にシラミがあふれて我々をおびやかしていた。

衣類を毎日乏しい水で洗い、煮沸しては悩まされた。


(14. 「地獄のとき 〜八、九人目の死者〜」に続く)

いいなと思ったら応援しよう!