流れ藻 12. 地獄のとき 〜六、七人目の死者〜
12. 地獄のとき 〜六、七人目の死者〜
日本人は死者を庭土に埋めて、花や菓子を供え始めた。
これをソ兵は極度に嫌った。見つけ次第、銃尻で、ムチャクチャにはね飛ばした。
そのあとを、満洲烏(カラス)が群れておりていた。
私達の小さなほとけ達は、棚板で小さな棺を作って、日本人会の葬送車を待った。
はじめこそ、霊棺車があったらしいが、そんなもので間尺に合わぬ事となったので、ターチョ(荷馬車)が死体を積み上げてつれにくるようになっていた。
これらの死人は殆ど裸でコモか毛布に包まれて頭が、足が、手が、とあふれ出て満載されていた。そこへ小さな棺は場所ふさぎとあって、ひどく嫌がられた。
これらの死者は、ハルピンの城外太平郷(タイヘイキョウ)という十六道街外れの広場に捨てられ、それを目当ての満人、鮮人が、衣類をはぎに出かけるのだった。
死人がみな裸で積み出されるのも、こうした事情を知っているために生きた人間に残すことにあるのだった。
杉野夫妻に託した谷岡孝之ちゃんも死んだ。 行ってみたら、白く、小さく、ひっそりと、蝋涙を幾筋も流した灯りの前に横たえられていた。
六人目の死児。
川井氏が牡丹江から帰されて来た。狩ったものの使い物にならない病人達はまとめて帰されたのだった。
別れた時よりは一層痩せて、半分ほどに衰えていた。
「何か食べたいものは?」
と尋ねてみたら、
「白い飯」
だったので、良子の為に軍足に隠していた少しの米を飯合で炊き、とろろ芋をすりおろして蓋にいれてあげたら、泪を流し流し
「ウマイウマイ」
とすすりこんでいた。
これを見たのが、生きた川井貞夫氏の見納めとなった。
若松町へ帰って、ガッタリと悪くなり近くに入院したが、 声がでなくなり、口笛で妻を呼び、口笛で礼を云い、口笛で別れを告げて、コトリと息絶えたのだと云う。
若松町の一室で、棺に入ったこの人を見た。
藍の浴衣を着て小鳥のねむりの様に首をねじまげてひっそりと死んでいた。
こんな日本青年のくつろぎの死姿をみた。
七人目の人が死んだ。
(「13. 地獄のとき 〜死線を彷徨う〜」に続く)
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