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改めて知ってほしい、「情の時代」について

昨日、あいちトリエンナーレの「平和の少女像」についてnoteを書いたそのすぐ後に、展示中止を知りました。

昨日から今日にかけてすごくモヤモヤするし、悲しいです。

昨日のnoteにも書いた通り、私はこの展示について様々な意見があるのは当然だし、どれも間違ったことではないと思うのです。なのに、暴力的な弾圧によって一方の主張が潰されてしまう現実がとても恐ろしい。

そしてこのタイミングで改めて、あいちトリエンナーレのコンセプト「情の時代」についてできるだけ多くの人に目を通して欲しいなという気持ちがむくむくと湧いてきました。

奇しくも今回の問題は、この「情の時代」で掲げられている課題がくっきりと浮き彫りになったように思います。

以下は、コンセプトの抜粋です。「情」とは何か、その課題は何かを出来るだけライトに汲み取れるよう抜きだしたつもりです(完全に私の独断で抜粋してるので、正しく汲み取りたい方はぜひとも上記リンクから全文を…!)

お時間ない方は太字にした部分だけのサッと読みでも良いのでぜひ拾い読みしてください。

厄介なことに、「情報」によって一度「評価」された感情は、変えることが難しい。イタリアのIMTルッカ高等研究所の計算社会学者ウォルター・クアトロチョッキらの調査結果によると、虚偽の情報を基に作られているウェブサイトの読者が、その虚偽を暴く情報に接する––––「事実」を突きつけられると、驚くべきことにそのウェブサイトを読み続ける確率が3割も高まるという。イェール大学のデイビッド・ランドらも同様の調査結果を発表している。

「事実(fact)」よりも対象を信じたい感情の方が優先されるのは、事実を積み重ねていっても決して「真実(truth)」にはならないからだ。それらは本来、切り分けて考えなければいけない。全ての問題を対立軸で捉えるのも誤りである。この世に存在するほとんどの事柄はグレーで、シロとクロにはっきり切り分けることができるのは全体から見てほんのわずかだ。
『漢字源 改訂第五版』によると、「情」という漢字には「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」、「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」、「人情・思いやり(→なさけ)」という、主に3種類の意味がある。
2015年、内戦が続くシリアから大量に押し寄せる難民申請者を「感情」で拒否する動きが大きくなっていた欧州各国の世論を変えたのは、3歳のシリア難民の少年が溺死した姿を捉えた1枚の写真だった。この写真をきっかけに、ドイツとフランスは連名で難民受け入れの新たな仕組みをEUに提案し、続いてイギリスもそれまでの政策を転換して難民の受け入れを表明した。欧州を埋め尽くしていた「情報」によって作られた不安を塗り替えたのは、人間がもつ「情」の中でもっとも早く表出するプリミティブな「連帯」や「他者への想像力」ではなかったか。
世界を対立軸で解釈することはたやすい。「わからない」ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段を取ることをハナから諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理した方が合理的だと考える人々が増えた。
われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。

あいちトリエンナーレは、情によって閉じていく人々を開くためのキッカケづくりを提示していると私は認識していて、それによって議論が起こるのは当然のことだとも感じています。

参加作家の男女比率を平等にしたのも、個人的には決して最適解・納得解ということではないと思っていますが、問題提議として成功していた。

「表現の不自由展・その後」も、たしかに問題提議だったはずであり、それによって多くの人がそのテーマについて考え、議論できたはず。

だけど、今回の結末に限って言うと我々は情によって情を飼いならすことはできなかった。

そんな現実が突きつけられた結果のように思えてならないです。

それでも私たちは情と向き合い続けるべきなのか?向き合わないとどうなっていくのか?少なくともそこからは逃げずに考えていくことが、今からでもできることなんじゃないかなぁと思うのです。

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