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一体どこなら存在を許されるのか

あいちトリエンナーレの「平和の少女像」の展示が話題になっています。

連日、私のTwitterタイムラインにも色んな意見が流れてきて

税金が投入された芸術祭でこの展示はけしからんとか
いやいや表現の自由だろとか

それはもう、本当に色々。

たしかにあの作品は元慰安婦像で、それに対する様々な感情や問題がある。

どの立場でものを言うかによって意見が変わるのも分かるので「こうあるべき」という一律の見解も出せないし、その結論を導き出す文脈が違うだけなので否定できるものではないと思っています。

ただ、ひとつ思うのはこの作品は一体どこなら存在を許されるのだろうか、ということ。

元々この作品が展示されている「表現の不自由展・その後」というのは、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会の続編です。要するに、他でも展示を拒否されている作品。

それ自体に罪はないはずなのに、展示場というあるべき場所で存在を許されないって、やるせない。

元慰安婦像という文脈や背景を全部とっぱらって私が思うのは、そんなことでした。

私はまだ作品も見ていないので、それの是非について明確に何か言えることはないなと思うのですが、作品が、作品としての存在を許されないのはなんとも表現しづらいほろ苦さがあるなぁと思うのです。

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