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夏の中心(短編小説・百合SF)

 あらすじ 小学生の間で流行したVR空間「秘密基地」。彼女がデザインした秘密基地は、いつも夏だった……。十数年間、意識を失ったままの親友を救うため、電脳空間医師となったセツリは、太陽のない砂漠を歩く。

 混じり気のない白、というものが、もしもあるとしたら、この部屋の空気を指すだろう。ここに集まった人々の胸のうちには、ひとりの人間を救いたいという気持ちしかない。その意思の表明としての白衣を身に付け、私たちは寝台に横たわる女性の周りに集まる。
「脈拍安定、脳波正常。その他項目、オールクリア」
 看護師の声が部屋に響き、私は呼吸を整える。眠る女性の頭から伸びる管の先、心象風景投影機に移る画像を確認する。荒涼とした砂漠。そこに太陽の光はない。これが十数年、昏睡状態にある女性……小海唯吹が閉じこもった世界だ。
「前潟先生」
 看護師と、数人の技師が私を見る。彼らに頷き、私は小海唯吹の隣に設置された寝台に横たわる。彼女が付けているのと同じ装置を頭皮に付け、それとは別に、自ら開発に携わった装置も付ける。あとは看護師がやってくれた。なすがままになりながら、手術室の外から向けられる、多くのメディア関係者の視線を感じた。電脳空間技術が社会に普及して数十年になる今、初めて自閉領域への潜入が試みられるとあって、多くのメディアが取材に来ていた。開かれた場である筈の電脳空間が、偶然、もしくは人為的に閉鎖されてしまう事故事例は、多くはないが、それでも確実に年に数例は起きている。今回の手術が成功すれば、世界的な注目を浴びるのは間違いない。
 ただ、心を閉ざし眠り続ける親友の目を覚まさせたいという個人的な一心でここまで来た私には、そんなことは関係なかった。電脳空間での治療を行う医師を志したのも、血のにじむような努力の末に、その道の第一人者と認められるようになったのも、全ては親友、小海唯吹のためだ。……いや、私はそんな恩着せがましいことを言える立場ではなかった。彼女がこうして眠り続けるようになったのは、私のせいなのだから。
 だからこれは、このダイブは、贖罪だ。必ず成功させなくてはならない、私だけの。
「前潟先生……幸運を」
 不安げな看護師に、私は笑顔を作った。
「行ってくる」
 そうして、意識を電脳空間に潜らせた。
 十数年前、私とイブキは同じ小学校の五年生だった。その頃には教育現場にも電脳空間技術が浸透してきていて、私たちは同じ教室にいながら、それぞれのヘッドホン型端末を頭に被り、個別に用意された電脳空間にダイブして授業を受けることもあった。体育の授業だけは流石に昔から続いてきたやり方が採用されていたけれど、それ以外のとき、私たちはいつもヘッドホンを身に付けていた。遊びも、グラウンドに出てかけっこや鬼ごっこをするのでなければ、大概は電脳空間で行われた。好き勝手に組み立てたアバターを使って着せ替えごっこをしたり、アバターの能力値を競ったり、そのためのアイテムをゲームで獲得したり。子どもの自主性を育むためということで、学校側も必要以上にその使用に干渉してはこなかった。だから、当時習っていたプログラミングを駆使して誰かが作った『秘密基地』アプリが爆発的に流行したときも、大人たちはその使用を制限しようとはしなかった。
『秘密基地』は、その名の通り子どもが自分たちだけの電脳空間を構築できるアプリだった。親にも教師にも内容を閲覧されず、勝手に侵入されることもない、基地のメンバーだけの空間。私たちは仲の良い友だちとデザインした秘密基地に集合して毎日、遊んでいた。
 今、私が歩いているのは、あの頃イブキがデザインした秘密基地だ。より正確に言うなら、あの頃イブキがデザインし、十数年の時の中で孤独に凝り固まった彼女の心象風景が投影された、秘密基地だ。かつて、たくさんの本棚が並び、その合間に妖精や歌う花々、頭上を飛ぶドラゴンなどが闊歩していた世界は、今や砂の下に埋もれてしまったようだ。陽の光さえ見えない、薄暗い砂漠の世界を、私は当てなく彷徨っている。
 冷たい砂の粒が時折、頬を打つ。触覚センサーをオンにしているから、電脳空間であってもプログラムされた感覚が生じる。身の安全を図るため、と言うのも、行き過ぎた感覚受容は脳機能へのダメージになるからだが、触覚センサーはいつでもオフに出来るようになっている。また、私の行動を見守ってくれている医療スタッフが、強制的に設定を変更することも出来る。世界で初めての手術では、何が起きるか分からない。
 この砂の粒ひとつも、イブキの心だ。本来であれば、ただデザインされ、秘密の遊び場として機能するだけの秘密基地は、今、イブキの心の動きと完全にリンクしている。彼女の心そのものを情報として吸収した秘密基地はあり得ない程に拡大し、子どもの遊び場にはふさわしからぬ広大さを獲得してしまった。この見果てぬ砂漠のどこかに、彼女の自意識がうずくまっている。私は、それを探さなくてはならない。
 イブキの秘密基地を見つけたのは偶然だった。あの頃は、友人が作った秘密基地を渡り歩き、彼らのイマジネーションを楽しむのがマイブームだった。もちろん最初は自分でもデザインしてみたのだが、自分には想像力が足りないということを痛感するのみに終わった。そうして色んな友人の秘密基地を訪問していた、そのときに、彼女の秘密基地に辿り着いたのだ。
「よくここを見つけられたね」
 イブキは同じ年ごろの子どもにしては珍しく、彼女本人を模したアバターを使っていた。黒く長い髪、白く透き通るような肌。薄い灰色をした瞳は澄んで、彼女の秘密基地の夏空を反射していた。
「鍵は掛けてないけど、決められた道順を辿らないと、ここには来られない仕掛けにしてたのに」
 個別の電脳空間を介する『通路』をふらふら歩いていただけだった私だが、偶然から辿り着くことの出来た秘密基地に、胸を躍らせた。一度も話したことのないクラスメートと話すチャンスが出来て、わくわくした。
「私は前潟摂理。セツリって呼んでよ」
 アニメキャラクターを模したアバターの右手を差し出した私に、イブキは一瞬、眩しそうな顔をした。
「知ってる。教室で、いつもみんなの中心にいるよね」
 いつも中心にいるかは自分では分からなかったが、いつも教室の隅で静かに本を読んでいるイブキに自分のことを知ってもらえていたということが、私には嬉しかった。イブキは私の右手を、そっと握った。まるで砂の城にでも触れるかのようにそっと、一瞬だけ。
「私は小海唯吹。……よろしく」
 そう言ってほほ笑んだ彼女の顔を、私は今でも脳裏に浮かべることが出来る。
 イブキは物静かで、本が好きで、あまり喋らなかった。それは私が彼女の秘密基地を頻繁に訪れるようになっても変わらず、教室では、私と目を合わせることすらなかった。けれど私は気にしなかった。秘密基地で、たくさん話せば良いのだから。
 しかし今になって思えば、私はもっと、教室でもイブキに話しかけるべきだったのだ。彼女の孤独に気が付き、それを癒すためにも。私はあまりに子どもで、そして想像力が足りなかった。
「セツリは、どうしてここに来るの」
 イブキの秘密基地に通うようになって何日目かに、彼女はそう言った。綺麗な夏空が広がる彼女の秘密基地にはすがすがしい風が吹きわたり、本棚に並ぶ本の匂いが微かに香った。積み重ねられた本の上に座るイブキの綺麗な黒髪が陽光にきらめく、そういう空間が好きだった。
「ここが好きだから。他の秘密基地も賑やかで好きだけど、ここはいつでも風が吹いてて、夏で、でも静かで」
 そこに佇むイブキが好きだった。現実にはあり得ない永遠の夏の晴天の下、永遠に読み終われない量の本に囲まれて、可憐な妖精や色とりどりの花々が奏でる静寂のメロディに耳を傾ける、彼女の様子を見るのが好きだった。
「イブキは、夏が好きなの」
「……多分」
「好きかどうか分からないの? 変なの」
「変かな」
 イブキは怒らず、私は少しがっかりした。彼女と話すようになってから数週間が経っていたけれど、未だに、彼女のアバターは落ち着いた表情しか見せてはくれなかった。彼女は、私に尋ね返した。
「セツリは夏が好きなの」
「うん、好きだよ。晴れが多いのも好きだし、暑いのも好き。寒いのは嫌い」
「ふうん。それじゃあ、ここはいつも夏にしておこうかな」
 小さな呟きにも似た言葉を、俯き加減に、彼女は口にした。それからあの日まで、彼女の秘密基地は、ずっと夏を保っていた。
 ふと、砂の粒とは違う感触が、頬に触れた。顔を上げると、雪が降っていた。砂漠にも、雪は降る。身体に触れると溶けて消えてしまう六花の結晶は、私の回想によって刺激されたイブキの心が降らせているのだ。
『前潟先生、心象風景の様子が……』
 電脳空間を歩く私の脳内に、看護師の声が響く。不安げなその声に、私は答える。
『大丈夫。想定内の反応だから、そのままモニタリングを続けて』
『承知しました』
 あの頃のことを思いながら歩を進めると、周りの空気が冷たさを増していくのが分かった。びゅうびゅう唸りを上げる風に、細かな雪片が混じる。私は、彼女の心に踏み入っているのだ。あのとき閉ざされた、彼女の心に。
 その年の夏休み、子どもたちはますます『秘密基地』に熱中していた。その頃には多くの子どもがデザインに習熟し、各自で考えた工夫を凝らして、自分たちだけの世界を構築していた。子どもたちは互いの基地を訪問し合い、それぞれのアイディアと技術を交換し合った。イブキはそういう交流に参加する気は毛頭ないようで、ただ、私が訪れる度に少し会話をし、それ以外は本に目を落とすばかりだった。
 イブキも、もっと多くの人と関われば、違う表情を見せてくれるかもしれない。
 あるとき、私はそんな考えに思い至った。少しはにかんだような微笑みがせいぜいで、イブキの明るくはじけるような笑顔を、私は見たことがなかった。それで、仲の良かった別の女の子を誘って、イブキの秘密基地を訪れたのだ。
 間違えた。
 友人を伴って訪問した私に向けられたイブキの目を見て、すぐに悟った。薄い灰色にたゆたう光が硬直し、浮かんだ微笑みは一瞬で消えた。
「ここは私たちだけの『秘密』基地なのに、どうして」
 慌てて口を開いた私を拒絶するように、イブキは両手を身体の前に突き出した。彼女の、閉じこもりたいという欲求に過剰反応した電脳空間は、私と友人を排除し、イブキひとりを、その中に閉じ込めた。子どもひとりの力で形成されるはずのない自閉領域が、そうして出来た。稀な事故の被害者として、イブキはそれからずっと、眠ったままだ。
 風が強くなり、私の前進を阻む。恐らくこの先に彼女がいる。
 あのとき私を見た彼女の目にあったのは、絶望だった。彼女は私といることが好きだったのだ、私が彼女といるのが好きだったように。それなのに、私はその思いを踏みにじった。ふたりだけの世界を、私は簡単に壊してしまった。夏の明るい太陽は、だから消え失せた。
「イブキ、どこにいるの」
 思わず呼びかけながら、風のさらに強い方へと足を進める。寒くて歯がカチカチ鳴る。睫毛の先が凍り始める。
『前潟先生、防御装置を』
 看護師の声を最後まで聞かずに通信を切り、防御装置を意識から放棄する。これで私は触覚センサーをオフに出来ないし、スタッフの助けを得ることも出来ない。よそ者は彼女の心の中に入れてはいけないのだ。それを今、ようやく思いだした。
 風が比喩でなく身を切る中を、私は抜けた。どうやらそこが最後の壁だったらしい。私はいつの間にか、穏やかに澄んだ青空の下にいた。夏の風が吹きわたる、静かな花園が広がっている。イブキの自意識領域だった。
 オアシスの中心に、茨の檻……いや、籠があった。近づいてみると、その中に、あの頃のままのイブキが横たわり、静かに寝息を立てていた。十何年間も、たったひとりで。
 茨の隙間に手を差し入れた。鋭い棘が容赦なく肌を刺し、白衣が赤く染まる。それでも構わずに伸ばした手で、イブキの髪に触れる。
「イブキ、来たよ。ずっとひとりにしてごめん」
 茨が消失した。私とイブキを隔てるものは、もう何もない。
 わずかに身じろぎしたイブキの瞼がうっすらと開き、灰色の瞳が、次の瞬間、私を捉える。


※ノベプラで開催されたお題マラソン企画で書きました。お題「秘密基地」。

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