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帰省中、ハンガリーの夏

夫の実家に来ている。ここはハンガリー南部の田舎。

ギラギラと青い空に少しだけその色を吸われたかのように、木々の葉っぱは微かに黄色味を帯びてきている。
村の道沿いに植えられたプルーンは熟れて落ちて酸っぱいにおいを放ち、柵からはみ出した家々のイチジクは今年2回目の収穫期。
平たい一面の畑には水気のないトウモロコシが空に突き出し、ヒマワリが大きすぎる頭を申し訳なさそうにもたげる。
晩夏。最盛に死の予感が混じる、大胆さと儚さの美しい季節。

以前ハンガリーといえばコダーイの『ハーリ·ヤーノシュ』しか思い浮かばなかった私は、夫が夫でなかったらこの国には来なかったかもしれない。

今私には両親と実家が2か所にあり、1か所は長野県で、もう1か所はここハンガリー。
そのどちらも私が育った場所ではなくて、片方には私の小さい頃の思い出がいくつかあり、もう片方には夫の小さい頃の思い出がある。

夫が小学校5年生まで過ごした町を歩く。資本主義になって35年経った町のそちこちに残る昔の欠片を見つけながら。
私の全然知らなかった社会の、全然知らなかった日常生活の一角を、小さい夫の幻像が走り抜ける。

夫の家族がドイツに移り住んだのは鉄のカーテンに穴が空く少し前だった。
旅行を装っての国外逃避をした人は珍しくなくて、ドイツにいれば意外とよくに耳にするエピソードだけれど、実際は様々なリスクと条件が関わる容易でない行為だった。
「かなりの覚悟で移住したのにけっこうすぐ東西統一して、あの覚悟はなんだったの?っていう感じだったよね」
なんて、今となっては笑いながら話される出来事。でも、その裏には掬いきれない感情がたくさんあったと思う。

ハンガリー人でもドイツ人でもない気がするという夫は Heimat (ハイマート、ドイツ語で「故郷」みたいな意味) という言葉がずっと苦手だった。
今は「間」という選択肢に落ち着いたらしい。謂わばタイルの目地のような、または畳と畳の間の細い筋のような「間」。

ちょうど今、私の足下にはタイル張りの床が広がっている。
几帳面に四角く整えられたタイルはみんな同じようでいて、それぞれ模様や色合いが微妙に異なる。少し色が薄いのや、汚れが目立つのや、筋があるのや。
それらをくっつけているのが目地の部分。溝を埋める役割。
タイルは一枚一枚完結しているけれど、目地は部屋の右上の端から左下の端まで全部繋がっている。
繋がっているが、どこも同じ色というわけではない。白っぽい部分もあるし黒ずんだ部分もある。汚れも溜まりやすいしカビやすい。

タイルの目地は、夫が落ち着いた「間」という場所を案外うまく表しているかもしれない。

この町の思い出の中の夫は自分の故郷や居場所を探したりする前の、小さくて単純で力強い存在。大きな桃を食べたり、レモンと木苺のアイスを食べたり(食べてばっかりだな)、猫と遊んだり、半ズボンでその辺を走り回ったり。

そういう一つ一つはすっかり昔の事のようで、実は確実に今の夫の中に残っている。
私の感じる懐かしさは、どうやらそこを通って濾過される出来事に派生しているらしい。ルーツはないはずなのに、なんとなく知っている何かがそこにある。

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