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検索からの脱出

私の仕事は、人を検索することなのかもしれない。
様々な人に出会い、話をする。
ただそれだけのことなのだが、これが難しい。
誰でも良いわけではない。
人と人には相性がある。
相性というのは、お互いの育ってきた環境を、履歴書に記入して確認し合っても通用しない。
相性というのは、言葉にできない何かが潜んでいる。
例えば、話している相手の表情であったり、何気ない仕草であったり。
相性というのは、そういった無数のやり取りから何かを感じ取り、人との関係を築いてゆくのかもしれない。

Googleは、頭の良い二人の学生によって、この世に生まれた。
何かふと疑問に思えば、Googleにアクセスして、疑問に思った単語を虫眼鏡に囲われている枠の中に打ち込むと、その単語を検索して、様々な情報を検索結果として、私たちに提示してくれる。
その検索結果の中から、私たちは情報を取捨選択してゆく。
おそらく検索の仕方 -疑問に対する単語の組み合わせ方- が、上手であればあるほど、非常に膨大な知識を得ることが可能なはずだ。
一見すると便利だが、私は最近、Googleで検索するという行為に対して、疑問を持っている。
私は、人間は、見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かない、知りたいものしか知らない、信じたいものしか信じない、非常に自己中心的て傲慢な生物だと認識している。もしかしたら、この地球上における全ての生物もそうなのかもしれないが。
極論で言うと、人間は、やりたいことしかやらないのである。犬、猫たちと変わらない動物だ。
そこにたまたま、理性であったり、喋ることができて、この世の中に存在する動物たちの食物連鎖の王座に君臨することができただけにすぎない。
つまり、検索するという行為は、自分が知りたいことしか知ることができないと、私は最近になって気がついた。
では、自分が知らないということを、どうしたら知ることができるのか?
答えは意外と簡単であった。
検索しなければ良いだけだ。
Googleを、インターネットを使わなければ良いのだ。

二つの本屋
私の中には、二つの本屋が存在する。
一つ目はAmazonという本屋だ。
私はAmazonのPrime会員なので、配送料はほとんど無料だ。
私はほしい物リストに「読書」というリストを作成していて、そこにはおよそ百二十冊の本がある。
それらは、いつの日か私が購入する予定だ。
二つ目は、本当の本屋だ。
街に佇むこじんまりとした本屋であったり、駅前にある本屋であったり、大きい通りにある本屋であったり、商業施設に入っている本屋であったり、とにかく本屋であれば何でも良い。
一つ目の本屋と二つ目の本屋には、圧倒的な違いが存在する。
一つ目の本屋は、自分で選んだ本が存在して、二つ目の本屋は、自分で選んでいない本が存在する。
一つ目の本屋は、人からのお勧めであったり、インターネットの情報を得て「自分」というフィルターを通して、本を選ぶ。
二つ目の本屋は、無数の本から、自分の直感 -ジャケ買いのような、本の力が持つ何かに引き寄せられたり- というフィルターを通して、本を選ぶ。
私は後者の方が、自分が知らないことを知ることができると確信している。
本屋には、本だけではなく雑誌もある。
雑誌は、実に様々なことを私たちに教えてくれる。おそらく雑誌を作っている人々は、私たち読者に対して、常に新しい何かを伝えようとしてくれているはずだ。
そして本屋に置いてある本も同等で、店員たちが「この本がお勧め」とか「今週売れた本」とか、私たち購入者に対して、新しい情報を教えてくれる。
しかも、今までに読んだことのない作者の本に出会えたら、そこからさらに本の世界が広がってゆく。
私は本屋に行くと、まずは雑誌コーナーに立ち寄るようにしている。
一通り雑誌を読み終えると、本コーナーに移動する。有名無名問わず、とにかく目についた本をまずは手に取る。そして、パラパラと読んでみて、「これかもしれない」と感じたら、その本を一度、元にあった場所に戻す。そして、携帯電話を出して、Amazonのアプリを立ち上げて、私のほしい物リスト「読書」に、その本が追加済みであるのかないのかを確認する。
追加済みの場合、その本は購入しない。なぜなら、その本を手に取って「これかもしれない」と感じた理由は、Amazonのほしい物リスト「読書」が関係しているはずであるからだ。
逆にその本が追加されていない場合、購入する対象になる。
その後、何回か同じことを繰り返すと、購入候補の本が五、六冊くらいになるので、その中から取捨選択をして、最終的に残った本を購入する。
ここまで一連の行為そのものが、自分の知らないことを知ることができる方法であると私は確信している。

本当の本屋で本を購入する経験を通して、私は自分の知らないことを知ることができる方法を発見したのだが、本屋について考えてみると、さらに重要なことに気がついた。
本屋は、人によって成り立っている。
本屋で働いている全ての人々が本好きではないだろう。
何らかの事情があって本屋で働いていて、本嫌いもしくは本に興味が無い人が存在しても全くおかしくない。
ただ、本好きがいる可能性は高いと、私は考えている。
例えば、蔦屋書店で働いているコンシェルジュを例に挙げたい。
私は今年、母型の祖父が九十二歳の誕生日を迎えたお祝いに、本を彼にプレゼントしたいと思い、代官山蔦屋書店に行った。
しかし、どのような本を祖父にプレゼントして良いか分からず店内をうろついていた時に、私は「コンシェルジュに相談してみよう」と思いつき、たまたま近くにいた女性コンシェルジュに声を掛けてみた。
「少々お待ちくださいね。」
彼女は私の相談に快く乗ってくれて、しばらくしてから、数冊の本を私に提案してくれた。

私はその数冊の本のうちから、金額と内容に合う本を一冊選んだ。
「柚木沙弥郎のことば」という本なのだが、その本は私の祖父と同じ九十代の男性で、彼は染色工芸家だ。
私の祖父は革の職人なので、同世代でジャンルは違えど、「何かを作る」という部分は共通しているので、彼にその本を読んでもらい、何かを感じて欲しかった。
その本を私の祖父にプレゼントした後日、母親経由で連絡が来て、彼が非常に喜んでいたという話を教えてくれた。
代官山蔦屋書店にいた女性コンシェルジュのお陰だ。
蔦屋書店には、「コンシェルジュが選ぶこの一冊」というコーナーがいくつかある。私はそのコーナーが一番好きだ。
先述した経験に加えて、私が知らないことを教えてくれるからだ。彼らのお勧めを通して、私は新しい本に出会えて、まだ知らない作家を知ることができる。

人に尋ねる
街中を歩いていると、最近よく二つの光景を見かける。
一つ目は、スマートフォンを片手に見ながら歩いている人々。
二つ目は、スマートフォンを片手に見ながら立ち止まっている人々。
どちらの光景にも共通して言えるのは、スマートフォンだ。
詳しくではないが、たまにすれ違いざまに、彼らが見ているスマートフォンの画面を見る。もちろん詳しくではないのだが、彼らが見ているスマートフォンの画面を三種類に分類してみたい。
一つ目は、LINEの類の、いわゆるチャットアプリだ。
これは右手もしくは左手の利き手の動きで分かる。フリック入力していそうな、スマートフォンの画面を指がフィギュアスケーターのように滑らかに滑っている。それに加えて、スマートフォンの画面は、大体が黄緑色だ。
二つ目は、ゲームアプリだ。
これは、右手もしくは左手の利き手に加えて、逆の手、つまり両手の動きと目の真剣さで分かる。
まず、両手の動きはとにかく速い。そして、一つ目のような滑らかな手の動きは一切なく、まるで和太鼓を叩いているように、スマートフォンの画面を激しく、これでもかと言わんばかりにタップ(押して?)いる。
これが歩きながら行われていると、非常にたちが悪い。
何らかの状況下で、それを行なっている人にぶつかってしまうと、相手はよほど集中しているのか、謝罪はせず、むしろ睨まれることがある。
(歩きながらゲームすんなよ。)
と、思うが、私は決して口に出さない。
三つ目は、Google Mapの類の、いわゆる地図アプリだ。
これは、右手もしくは左手の利き手の動きが、一つ目と二つ目に比べて極端に遅い。
基本的に手は動かないが、たまに動く。動くと言っても、亀の動きのように、ゆっくりと。たまにもう片方の手が添えられて両手になり、両方の親指でスマートフォンの画面を拡大する。スマートフォンに慣れている人だと、片手で、人差し指と親指で同じことをする。
ここまで分類してゆくと、一つ目(チャットアプリ)と二つ目(ゲームアプリ)は検索に当てはまらないが、三つ目(地図アプリ)は検索に当てはまる。
私はこの検索も止めようと試みている。
つまり、私は地図アプリを極力使わないようにしている。

私は方向音痴なので、道によく迷う。本来、右に曲がれば良いのに、左に曲がってしまう。残りの三方向(左前後)も同様だ。
もういっそのこと、自分が行きたいと思う方向の逆に行こうと思い、それを行動に移すと、そう言う時は結局、逆の方向に行っている。
ここまで書いていると、私の方向音痴レベルはかなり高いことに自分自身でも気がつくのだが、私は地図アプリを極力使わない第替の行動は、かなり単純だ。
それは、人に尋ねるということだ。
建物の規模が大きい駅と商業施設には、必ず「インフォーメーションセンター」とか「受付」が備えられていて、高確率で女性が二人いる。
彼女たちは、人に教えることを仕事にしているので、その道のプロだ。私は、乗り換えたい駅であったり、行きたい店を知りたいと時、まず彼女たちに尋ねるようにしている。
私はその方が、地図アプリを開いて調べるよりも、彼女たちに尋ねた方が時間を節約できることが分かったし、情報が正確だということも分かった。
では、彼女たちがいない場所、つまり建物の規模が小さい駅と商業施設もそうだし、いわゆる普通の、場所を探している場合は難易度が上がる。
それは、知っていそうな人に尋ねるということだ。
まず、これは自分が行きたい場所の種類について、人に尋ねる前にきちんと把握しておくことが重要になる。
その場所は、老若男女に知られているのか、いないのか。もしそうでないのなら、男性、女性のどちらに知られているのか、また年齢層はどのくらいなのか。
あまり深く考えてしまうと、それだけで時間を消費してしまい、人に尋ねるのが億劫になるので、まあ、ざっくりとした気持ちで、(この人なら知っていそうだな)と感じた人に声をかけてみる。
こんな風に書いてしまうのは失礼だが、当たりの場合、目的地まで分かりやすい説明をしてくれる。外れの場合、(そもそも、目的地までの行き方を知らないので)スマートフォンの地図アプリを開こうとしてくれる。そこまでして目的地に辿り着くのは、相手の貴重な時間を奪ってしまう罪悪感に、私は苛まれてしまうので、その動きを制して礼を伝えて、その場を去るようにしている。その後、私は自分のスマートフォンを取り出して、地図アプリを開き、目的地までの行き方を確認する。
得られる情報は、当たりと外れの場合のどちらも同じなのだが、私は前者の方が嬉しい。人から得られる情報は「生きている」と私は思う。
地図アプリの「50m先を右折して」とか「100m先を左折して」とか、そういう具体的すぎる情報は「死んでいる」と、私は思う。
せっかく情報を得るのなら、私は少しでも「生きている」情報を得たい。
それを得ることにより、私は「生きている」ことを実感できるから。

「面白い人」レーダー
最近、非常に貴重な経験があった。
私は東京から神戸に移住して日がまだ浅いので、親戚以外で頼れる人が、東京にいた時よりも圧倒的に少ない。
「寂しい」といった後ろめたい気持ちは、私には微塵も無い。むしろ、この状況を楽しんでいる。
RPGのゲームで言うと、最強のレベル、メンバー、装備、道具などを全て外し、一からのスタートで、場所が全く違う。
私はこのような状況が、いつだって好きだ。むしろ、私は死ぬまで、この繰り返しを続けていきたいとさえ願っている。
私は神戸で会社を設立して、番組制作を、会社が取り組む事業のうちの一つとして、日々、勤しんでいる。
私が「面白い」と感じた人を、番組ゲストに出演してもらうことが、この番組制作の肝になる。
この「面白い」という表現が、非常に難しい。お笑い芸人たちのような「面白い」を私は一切求めていない。
私が感じる「面白い」というのは、今、現在、もしくは過去でも未来でも、どれでも構わないのだが、情熱を持って(もちろん、それは人それぞれなので、その尺度はあまり気にしない)何かに取り組んでいる、取り組んできた、取り組もうとしている人々だ。
その取り組みについては、何でも構わない。ミュージシャン、俳優、モデル、起業家、デザイナー、料理人、写真家、映像作家など、何でも構わない。
私はそのような人と出会い、会話ができるだけで満足だ。そして、私とそのような人々との会話が番組を通して、視聴者たちに何かを感じてもらえれば満足だ。
私はこの番組制作を、最低でも五年間は続けようと覚悟を決めて、日々、取り組んでいる。
ここまで、私が番組制作にあたる情熱を書き連ねたのだが、これは視聴者にとって、どうでも良いはずだと私は考えている。
例えば、飲食店で料理を出される前に、このような説明をされると迷惑ではないか。少なくとも、私はそのような飲食店に行きたくない。四の五の言わず、料理だけを出してほしい。もしその料理に感動したら、私はその料理と飲食店に秘められている情熱を知りたくなる。
関西に、神戸に移住してから、どのようにして「面白い人」に出会うことができるのか。
私は最近、このことについて考えていた。神戸、大阪、京都のそれぞれに頼れる人はいるのだが、私には新しく「面白い人」ルートを冒険者のように切り開いてゆく必要がある。
私はまず、Googleで「面白い人」を検索することはしないと決意した。これは、今回のテーマ「検索からの脱出」に基づいて行動したいからだ。
私は三宮にあるジュンク堂に向かった。本の量が、周辺の本屋に比べると、圧倒的に多いので、私は何かしらの情報を得られると考えたのだ。
まず、ライフスタイル誌のコーナーに置いてある雑誌に「面白い人」が載っていた。だが、その人は奄美大島に住んでいるので、また別に機会に連絡を取ることにした。
次に、たまたま手に取った大阪の情報誌に「面白い人」がいた。その情報誌は、カレー特集だ。
もしかしたら、私は単純にカレーを食べたかっただけなのかもしれないし、そうでないかもしれないのだが、とにかくその情報誌に巡り会えたことにしておこう。
その「面白い人」は、情報誌の中でレポーター的な立ち回りをしつつ、自身でもカレー屋を大阪に出店している。
その翌日、私は大阪・西天満にいた。
曽根崎通を一本入ったこの辺りは、骨董屋が所々にある。神保町の古本屋通りの雰囲気が醸し出す、-一冊一冊に詰め込まれている- かつては人の手にあった温もりを感じさせるような場所だ。
私は早速、そのカレー屋に入る。
店内は、九十年代を彷彿とさせる、私にとってはどことなく懐かしい雰囲気だ。その証拠に、スーパーファミコンが店内に置かれていて、マリオカートのカセットがスーパーファミコンの本体に差されていて、テレビにはゲームの冒頭画面が表示されている。
店内にはL字型のカウンターが置かれていて、客は全員で七人までといったところか。
ちょうど私がそのカレー屋を訪れたのは午後二時過ぎで、私は朝食にカレーそばを食べた(結構、こういうことをやってしまう)ので、ここまで来て、カレーはまた次回にして、まずはその「面白い人」に挨拶だけしようと思い、とりあえずホットコーヒーを注文した。
店内を見回すと、「面白い人」が集めているであるろう「面白い物」が、L字型カウンターの店の奥側に、所狭しとひしめている。
(カレーも注文しておくべきだったかな。)
私が後悔をしている時に、
「ホットコーヒー、どうぞ!」
と、「面白い人」が、私の注文した飲み物を出してくれる。
私はホットコーヒーを飲みながら、「面白い人」に、どのようにして距離を詰める(仲良くなり、番組出演の許諾を得る)かを考える。
「面白い人」は、意外と人見知りなのかもしれない。
もしかしたら、その「面白い人」は「面白い人」を演じているだけであって、本当に「面白い人」ではないのかもしれない。
そのような推測をしているうちに、ホットコーヒーを飲み終えたので、次いでアイスコーヒーを私は注文する。
(やっぱりカレーも注文しておくべきだったかな。)
私は、ここまで(何がここまでか不明)きたら、カレー屋でカレーを注文しないという、自分の謎の決意を尊重して、後悔の念を捨てる。
「アイスコーヒー、お待たせしました!」
ホットコーヒーを飲んだ後に、アイスコーヒーを注文してカレーは注文しない変な客に、「面白い人」は何事もなく平等に接客をしてくれる。
私は再びL字型カウンターに置いてある「面白い物」を見ていると、そこには二冊の小冊子があり、そのうちの一冊を手に取る。
「公式カツカレー図鑑第一集」
表紙の三分の一が、堂々たる自信を感じさせる赤色で、縦長極太のしっかりとした書体を占めている。残りの三分の二は、カツカレーを真俯瞰で撮影した写真が占めている。
その小冊子をめくると、各ページにカツカレーの店のカツカレーの写真、感想、営業時間、定休日、QRコードの情報が記されている。
私はその第一集を読み終えて、第二集をめくる。
第二集も第一集と同じ情報が記されているのだが、一番最後のページだけ違う。
「このページに広告を出しませんか?」
カウボーイ風の男性が、とんかつを釣り上げている8ビット風のイラストで、その文章の左上に優しく添えられている。
そして、広告掲載についての文章が記されているのだが、それを読み進めていくうちに、私の頭上から雷が落ちる。
「なんなら、あなたのプロフィール写真とか、飼ってる猫の写真でも良いです。」
これだ。これは「面白いこと」になりそうだ。
私の中にある「面白いレーダー」が、漫画「ドラゴンボール」のブルマが発明したドラゴンボールレーダーの如く、一気に反応した。
「広告、出せるんですね。」
私は「面白い人」に尋ねていた。
「はい、出せますよ!でも、デザインとか全ては別の人がしているんですよ!」
「面白い人」が私に教えてくれた瞬間、私の中にある「面白いレーダー」が、さらに反応する。
(どうやら、ドラゴンボール(面白い人)は、一個(一人)ではなく二個(二人)あるようだ。)
私はその別の人についての情報を「面白い人」から得る。

どうやら、その別の人は、この場所で夜はバーを営業していて、酒を出しているとのことだ。
「ゆとりちゃん」という名前が、そのバーだ。
(これは、かなり面白いことになりそうだ。)
しかしながら、そのバーはコロナ禍の為、現在は営業をしていないとのこと。さらにその別の人は、毎週月曜日にこの場所で、コーヒー屋をしているとのこと。
カレー屋の定休日は日曜日と月曜日なので、定休日を有効活用してコーヒー屋を営業しているわけだ。
カレー屋、バー、コーヒー屋。
一見すると、この三店舗に共通点は無く、ランダムであり、カオスのような無秩序かと思うだろう。
しかし、この三店舗の奥底にひっそりと潜む優雅な輝きを放つダイヤモンドのようなものに、私は、-まるで探検隊が秘境の地を発見したかの如く- 出逢い、これはそうだろうと確信した。
この人たちは、全員「面白い人たち」だ。
さらに私は、クラフトコーラを飲んでみたくなった。
おそらく、「面白い人たち」を発見することができて、ビールで自分自身に祝杯を上げたいのだが、私はバイクでこの場所に来たので、それができない代替策として、クラフトコーラを飲みたくなったのであろうと、この文章を書いている現在になって、ようやく当時の私の心境を推測できた。
私は、「面白い人」にクラフトコーラを注文する。
「クラフトコーラは、隣のお店なんですよねー!」
「面白い人」は即答した後、隣の店の店員を呼び、クラフトコーラを注文してくれた。
なるほど。どうやらこの場所は、カレー屋と飲料屋(クラフトコーラのような、普段飲むことができないの二店舗)が、場所を有効活用しているということになる。
私は、隣の(徒歩五秒)飲料屋に移動して、クラフトコーラを飲むことに決めた。
なぜなら、私の中の「面白いレーダー」が、また別の反応を微かにしたからだ。

飲料屋の店員が少ししてから、私にクラフトコーラを差し出してくれる。
普段、私はコーラを飲まないので、久しぶりに飲むそれは格別に美味しく、炭酸が私の喉を心地良く刺激してくれた。
口の中に広がる甘味に幸福感を覚えつつ、私は飲料屋の店員に、聞き込み調査をする。
私「大阪は、神戸に比べると、個性的で面白い方が多いですよね。」
店員「そうかもしれないですね。でも大阪に住むと、そういうのに慣れてきて、分からなくなるもんなんですよ。」
なるほど、と私は思う。コロナウィルスが観光業界に大打撃を与えて、インバウンド需要が低下したことは言うまでもない。
当時、海外の人々から見た日本は、非常に興味深く、どこか不思議であり、面白く映っていたのだろう。もしも彼らが英語ではなく、流暢な日本語を喋られたら、どんなに楽しいだろうか、と私は想像してしまう。
私は日本人で東京から神戸に移住して、関東と関西の文化の違いを日々発見して、楽しめているのだから、これが日本人ではなく別の国の人の場合なら-などと思いながら、私はクラフトコーラを飲み、飲料屋の店員と会話する。
「アンタ、面白い人、探してんの?」
突如、謎の男性から、私は声をかけられた。

ジローさん
「そうなんです、探しています。」
私はその謎の男性に、番組制作をしている経緯を説明する。その男性はカツカレーを食べながら、私の話を熱心に聞いてくれる。
「そんなら、この店にも来るやろ。」
どうやら、この店に来る常連客のうちの一人が、その謎の男性と飲料屋の店員曰く、かなり「面白い人」らしい。私はその「面白い人」にいずれ出会うことができるよう、この場所になるべく通おうと決意する。
きっと、週一回程度が理想的であろう。
そんなことを考えていると、カツカレーを食べ終えた謎の男性が、
「お兄さん、ちょっと時間ある?この近くで面白いことをしてるやつおるから、もし良かったらそこまで案内しよか?」
「はい。」
私は即答した。
この近くというのは、この場所から車で十分程度の距離にある、中津という地域だ。
私はその男性に自分の名刺を渡して自己紹介をすると、彼も同じことをしてくれた。
謎の男性「ジローっていいます。」
私「えっ、ジローですか?」
なんと、その男性の名前は、私がむかし飼っていた犬の名前と同じなのだ。
ジローさんの名前は漢字があるのだが、これも今は亡き愛犬ジローが私に与えてくれた何かの縁かもしれないということで、以後もジローさんと記したい。
とにかく、ジローさんと私は、この場所を出て、中津に行くことにした。

トンカツ屋
中津は梅田の北に位置している。
梅田は再開発で、梅田駅とその周辺にある商業施設の建て替えが終わっているのだが、中津はまだ再開発が進んでおらず、住民は高齢者が多く、空き家がちらほら目立ち始めているとのこと。
ジローさんが私に車内で、中津という場所について説明してくれる。
他にも、ジローさんは古美術商で生計を立てていて、私たちがいた店の数軒先に彼の店があるとのこと。私たちがいた店で、彼は良くカツカレーを食べに行くことも教えてくれた。
そして、私たちの仕事の共通点は、人との繋がりを丁寧に増やしていくことではないか、という話で盛り上がっていると、目的地に到着した。
ジローさんは携帯電話を操作し始めて、電話を掛ける。
ジローさんが電話を掛けている相手は、これから私に紹介してくれる「面白い人」だ。その「面白い人」は、私たちが現在いる中津エリアにある、誰も住んでいない家、いわゆる空き家を有効活用して、トンカツ屋をこれから始めるとのことだ。
住居を飲食店に改修するので、居抜き物件とは違い、かなり手間がかかり大変だろうと私は思っていると、
「おかしいな、電話出ないわ。」
と、ジローさんは言う。
「とりあえず、場所だけでも見とこか?また今度、来てみればええし。」
ジローさんの提案に、私は即答で快諾して、私たちは車を降りて、目的地まで歩いてゆく。
結局、そこに「面白い人」はおらず、ジローさん曰く「近くで休憩をしているのかもしれない」とのことなので、後日、私は「面白い人」に会うことにした。
私たちは再び先ほどの場所に戻り、私は腹が空いたので、キーマカレーを注文して、ジローさんとカレー屋の「面白い人」と飲料屋の店員の四人で談笑した。
カレー屋に「面白い人」が一人、ゆとりちゃんというバーに「面白い人」が一人、中津のトンカツ屋に「面白い人」一人。
三宮のジュンク堂で、私がたまたま手に取った大阪の情報誌により、ここまで「面白い人」に出会えたことに感謝したい。


ここまでのことを振り返ってみると、ジュンク堂でたまたま手にした大阪の情報誌は、雑誌を作る人々によって世に出され、本屋の人々によりそれが配置されたわけだ。
私のように「面白い人」を探す目的でそれを読む人は少ないだろう。
その大阪の情報誌は、人によって作られ、人によって配置され、人によって読まれ、人によって知られ、そこから先は人によって行動される。
そこから先の行動について、私の場合は珍しい経験ができたのだと思うのだが、私はさらに人の輪が広がることを願っている。
TBSドラマ「3年B組金八先生」で、武田鉄矢氏が演じる坂本金八が、
-「人という字は、互いに支えあって人となる」-
と、ドラマの中で生徒に説いた名言がある。
私は今回、検索からの脱出を試みたことにより、この名言の意味を少しだけではあるのだが体感できた。
最後に、私が大切にしている言葉で、ここまでくどくどと書き記した文章を終わりにした。

-我以外皆師也-

故吉川英治氏「宮本武蔵」より