スキル/アウトプット

例えば生まれてきた意味を問おうとしたとき、
答えや正解は人それぞれあるかもしれない。

どんな理由であれ、その上で、生きてく術も必要だったりする。
コミュニケーション能力、計算が得意だったり、たくさんものを覚えたり、
或いはたくさん言葉にする、絵を描く、音楽を創る、写真を撮る。

時に職業に見えるそれが、
時には趣味に見えるそれが、
時には生きがいであるそれが、
生きる術なのかもと思った。

"芸術"や"才能"だと特別扱いされる、
そういうスキルって
みんなな何かしら持ってるんじゃないだろうか。

小さい大きい、色や形、色々。

「自分より得意な誰かがいたから」。
(BUMP OF CHICKEN/才悩人応援歌)
忘れたり、捨ててきたり、手放したりしただけで
もしかしたら小さい頃から個性として見えていて
"常識"や"普通"、"当たり前を押し付けられてる"間に
みるみるに小さくなったり、見えなくなっちゃったのかもしれない。

人と違えば正され、
"普通"でなければ馬鹿にされ、
従わなければ首を切られ、
並んで歩かなければ足をひっかけられる。

そうしてるうちに、人の個性が小さくなり、
無くすために、手放すために、
苦しくて苦しくて、
辛くても辛くてもそれを抑えつけて生きてきた人もいるだろう。

けど、未熟な時に抑えつけられた個性は
大人になった頃にはどうだろう。
個性を求められ、
メディアでは普通ではないものが賞賛され、
大きな声があげれる人が何かを動かしたり、
多大な拍手を浴びたりさえしてる。

きっと彼らは自分より得意な誰かに出会わなかったのかもしれないし、
出会ってもつかみ続けたし、
或いは正しさを押し付ける環境がなかったのかもしれない。

もしかしたらラッキーだった。
もしかしたら今の時代で個性を抱えたまま育ってこれた、それはラッキーだったから。
そしてそれをアウトプット出来ている、というだけ。

加えて思うのは、
それが自分のスキルだと気付いたのかもしれない。
好きだから止められなかった、
時々はやらされたかもしれない、
一度は止めたかもしれない、
それしかなかったかもしれない、
何も考えずにそこにあったのかもしれない、
それでも今、手放さなかった。

スキルを扱えてる人は、そういう人だと思ってる。

だから、手放した人も今もう一度拾ってきてもいい。
別の何かを掴んでもいい。

一番じゃなくていい、
下手でもいい、
小さくてもいい、
まだ真っ白でも、既に真っ黒でもいい。

普通や平凡を嫌う必要はない。
自分らしさを取り戻す、
ただ生きていく、自分を生かすためのスキルを
もう一度と心や思い出の隙間や端から見つけ出し、
手のひらの中でいいから、
掴みたかった夢を広げてみたら自分を生かすスキルに思い出すんじゃないかな。

これかな?と迷ったら
手のひらで広げた時にそれを見て
涙が流れたり、笑顔になれたら
自分の大切なもの、大切な個性、大切な自分を生かすスキルなんだろうな。

次はアウトプット。
粘土を捏ねたり、走り回ったり、何かを切ったり、作ったり壊したり。

どんなものを生み出してもいい。
鼻歌もいい。好きな服を着ることでもいい。

それを批判する人がいたら、
それは個性を手放してきた人たちが
羨ましがっているだけだと思っていい。

"普通"ではない芸術や音楽が賞賛されている事が証拠だろうな。
『当たり前のものだ!すごい!』なんて人みたことない。



天から降ろされたものに意味のないものは一つもない。
アイヌである以上、頭の隅に転がっている言葉だけど、
本当に、天は意味が無いものを何一つだって下ろさなかった。
おばあちゃんにそう教わった。
誰もが、物だって、感情や縁ですら、
すべてに意味がある。
なおかつ必要であるからそこにある。

気付かない人たちは、
当たり前、平凡、普通を押し付ける。

世間では弾かれてしまうソレだって意味はある。
少なくても本人にとっては、生きる術なんだ。



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