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けっしてモノクロなんかじゃなかった

一枚の白黒写真があった。

柔らかそうな革張りのソファで鉛筆片手に足を組み、何かを執筆している男性と、彼から少し離れてちょこんとソファの上でお座りするポメラニアン。

日常の何気なく愛しい瞬間が切り取られた、とても素敵な写真だ。

その写真が貼られたアルバムからふと顔を上げると、写真の中の男性がシワが増え、髪が薄くなり、カラーになった状態で、孫の私をにっこりと見つめている。

写真は1970年代に撮られたものだから、およそ50年前。
半世紀の年月を経て私の目に届いた祖父は、モノクロでキメの粗い世界にいる。写真の中の彼もまた、今目の前にいる彼自身と同じようにくっきりとしたカラーの世界で生きていたんだよなあ……と思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
うーん、いまいちピンとこない。

この前Twitterで、2000年代前半に発売されたビデオカメラで今の街の様子を収めた動画を見かけた(勝手に人様のツイートを埋め込んでいいかわからなかったので載せませんが、調べればすぐ出てくると思います)。

モノクロではないが淡くくすんだ、解像度の低い映像を見ているうちに、20年前の新宿を見ているような、そんな奇妙な感覚に襲われた。映し出されているのは、もちろん2021年の新宿。
それなのに、マスクをした人々も、TOHOシネマズの大きなゴジラも、『花束みたいな恋をした』の看板も、何もかもが「遠い昔にそこに在ったもの」というような気がするのだ。
同じようなコメントをしている人が何人もいたから、この感覚は他人と共有できるもののようだ。

紛れもない「今」を、「古いカメラ」という媒体を通して見ることで、「過去」と錯覚してしまう。〈知覚のねじれ〉とでも言えるだろうか。
私たちの脳は、フレームの中に閉じ込められた世界を、その写真や映像の持つ、そのままのフィルターを通して知覚してしまうらしい。

これってとても興味深い…!

じゃあ、最近デジタルカメラで撮った写真を、古い写真のように加工したらどう見えるかしら…?

ふとそう思いつき、やってみた。

たとえば、上野で見かけたおじさまがたの写真。
デジタルで撮った写真をモノクロにして、粒子をプラスした。


元の写真はこんな感じ。

どうだろう、カラーのものと比較して、モノクロの写真は、このおじさまがたの存在をどこか遠くに、現実感のないものとして感じられないだろうか。

他にもこんな写真とか。

これは2年前にロンドンで撮った写真。
被写体が古風なのも相まって、モノクロだと歴史的記録として教科書に載っていそうな雰囲気だ。

元の写真はというと…

うん、これはちゃんと2019年の写真に見える。
観客がスマホを持っているのも目立ちますね。  

おおざっぱな試みではあるけれど、〈知覚のねじれ〉を感じてもらう材料に少しはなっただろうか。どうでしょう…

ちなみに、この記事のヘッダーに使っている犬の写真も、元はカラーの写真だった。


彼(彼女?)は今もきっと、このくらいカラフルな世界で生きているのだ。

技術の発達によって、私たちの残せる世界はより鮮明に、美しくなった。
しかし、いつの時代でも、リアルにそこに在った世界は同じようにカラフルで美しいはずだ。

私の祖父の写真はもちろん、教科書に載っている白黒写真にも、70年以上前の戦争を記録した映像にも、そのフレームの向こう側には、8K映像も顔負けの超高精細な現実があったはずなのである。

そして、そのことをけっして忘れてはいけないと私は思う。

今まで話してきたのは、時間という軸での〈ねじれ〉だけれど、私たちは至るところでねじれた知覚を体験している。

たとえば目の前に広がる壮大な風景を見て「CGみたい」とつぶやいたり、ニュースで他国の激しい紛争の様子を見てつい「映画みたい」と感じてしまったり。

写真や映像は、瞬間を切り取ってフレームの中に永遠に閉じ込める。だからこそ面白いのだけれど、そのフレームの中に脳までも閉じ込められてしまうことは、なんだかとてもおそろしいことのように感じる。

けっしてモノクロでもなく、CGでもなく、映画でもない世界。

そんな世界をまっすぐに見つめたい。

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