うすい えん

気になること楽しいこと美味しいこと。

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最近の記事

虚構と現実のあいだに

その日はドア・トゥ・ドアで3時間ほど離れた祖父母の家を訪ねる予定があったので、本を鞄に突っ込んでから家を出た。 選んだのは角田光代さんの『キッドナップ・ツアー』。 たまたま私の本棚の目につきやすい場所に置いてあり、ほとんど直感でこれを持っていこう、と閃いた。 でも実は、この本の頁をめくるのはたぶん10年以上ぶり。最後に読んだのは小学生の頃のはずだ。 どんな話だったかしら。 午後の陽射しがあたたかい電車の中で、パラリと本をひらいてみる。 夏休みの第一日目、私はユウカイされ

    • スコットランドで米を炊く

      家族でフランス旅行の思い出話をするとき、アヤちゃんは必ずこう言う。 「お兄ちゃんと一緒に行くんじゃなかった!」 するとおばあちゃんが続けて、 「ほんと、パパとケンちゃんのせいで散々だったわよ」 と笑う。 アヤちゃんとは私のいとこで、ケンちゃんはアヤちゃんの兄にあたる(つまりケンちゃんも私のいとこ)。「パパ」とはおばあちゃんの夫、私とアヤちゃんのおじいちゃんのことだ。 アヤちゃんとケンちゃんは、中学生のころ、おばあちゃんとおじいちゃんにフランス旅行に連れて行ってもらった。

      • しずかに発光する

        ずっと気になっていた本をついに買った日、家に帰って最初の1ページをひらくまでの道中は、リュックサックに宝物を隠している気分になって背中にすべての意識が集まる。 そわそわ、わくわくする気持ちは、自分だけの秘密。電車で隣に座っている人も、道端ですれ違う人も、私の浮足立った気持ちを知らない。リュックサックの中に仕舞われた小さな宝物は、私にしか気づかれないくらいしずかに光を放って、心をほんのり照らす。 本、映画、洋服や雑貨、料理……運命的に出会ったものたちが与えてくれる蛍のような

        • けっしてモノクロなんかじゃなかった

          一枚の白黒写真があった。 柔らかそうな革張りのソファで鉛筆片手に足を組み、何かを執筆している男性と、彼から少し離れてちょこんとソファの上でお座りするポメラニアン。 日常の何気なく愛しい瞬間が切り取られた、とても素敵な写真だ。 その写真が貼られたアルバムからふと顔を上げると、写真の中の男性がシワが増え、髪が薄くなり、カラーになった状態で、孫の私をにっこりと見つめている。 写真は1970年代に撮られたものだから、およそ50年前。 半世紀の年月を経て私の目に届いた祖父は、モ

        虚構と現実のあいだに

          おひとりさまごはんの真髄

          さく、じゅわ……と華やかに音が鳴る。 これは、渋谷のとある食堂で、私と一対一で対峙したアジフライを箸でつついたときに聞こえた音なのです。 耳からというより、箸を持つ指先から伝わってくるようなささやかな音。友達と一緒にいるときはついおしゃべりに夢中になって、聞き逃してしまう音。 五感をフルに活用しながら、ぱくりとアジフライにかじりつく。その瞬間、衣のサクサクとした食感と、ふっくらとした身から立ち昇る豊かな風味が全身に幸福の風を吹きわたらせる。う〜ん、美味しい。心の中でうなる。

          おひとりさまごはんの真髄

          おいしいケーキと名探偵、夕方の散歩とときどき半沢直樹

          その日も私は歩きながら、ひとりで泣いていた。 電車から降りて、午後三時のあたたかな陽射しの中をぼんやり歩いていたら、ふとしたはずみで急に泣けてきた。 困った。 人の目も多い道端で涙を浮かべていること以外に、困ったことがひとつあった。 自分が泣いている理由がよくわからなかったのだ。 * ここ2年で涙を流すことが増えた。 そしてそのたいていの場合、私は自分がどうして泣いているのか判然としなかった。 直接的な原因は見当がつく。詳しく書くことは控えるが、2年前あたりから私は色

          おいしいケーキと名探偵、夕方の散歩とときどき半沢直樹

          平日のIKEAで息をしていた、すべてのものたち

          どうにも、平日のIKEAは人を感傷的にさせる力をもっているような気がする。 木曜日、午後4時半。客の姿もまばらな店内で、私はひとり、人生に散らばる〈可能性〉について思いをめぐらせていた。 その日、私は立川に野暮用があったので、せっかくだから少し早めに出かけて立川を満喫しようと、IKEAに寄った。 IKEAには数年前に横浜の店舗にいちどだけ行ったことがあるが、日用品を売っている場所なのに、どことなく非日常感のただよう空間だなあ、と思ったことを覚えていた。 あれほど大型の店

          平日のIKEAで息をしていた、すべてのものたち

          巣ごもりスパイスカレーのススメ

          思えば、私のちょっと特別な食事の思い出はカレーとともにある。 どこか上の空で授業を受けてしまうくらい楽しみな給食、はじめて親元を離れて夜を過ごした移動教室でのハンゴウスイサン、母が仕事で遅くなる日の晩ごはん、留学先でルーを手に入れて友人にふるまった”日本料理”……。 そんな私のカレー史に、新たな仲間が加わった。今はやりの「スパイスカレー」だ。 昨年、自粛生活を余儀なくされた寂しい春に、私はスパイスカレー作りにハマった。 就職活動くらいしかやることがなく(しかもこてんぱんに心

          巣ごもりスパイスカレーのススメ

          冴えない毎日にパウンドケーキを

          朝、カーテンから漏れる生まれたての陽の光と小鳥のさえずりでゆったりと目をさまし、まずはコーヒーを一杯、清潔な衣服に着替え、さあ私の新しい一日がはじまる……なんて生活を夢みながら、スマートフォンのアラームに叩き起こされる。 それから二度寝三度寝を繰り返し、スヌーズを止めるついでに漫画アプリをひらき、YouTubeをひらき、1時間くらいベッドでぐでぐでしてからやっとこさ布団から這い出る。時計はだいたい10時半を指している。あ、今日もまた「スッキリ」を観られなかった。クイズッス楽

          冴えない毎日にパウンドケーキを

          ナポリタン【イラスト】

          ナポリタン【イラスト】

          血液とナポリタン

          久しぶりに指を切ってしまった。 ナポリタンをつくるために玉ねぎを細切りにしている最中、あらぬところに薬指をうっかり置いてしまい、玉ねぎと一緒に刻みかけたのだ。 あっ、と思ったときには第一関節に1センチほどの白い線が走っていて、これはちょっと深いかも、と頭が認識してコンマ数秒経ってやっと、じわじわと血が流れ始めた。このコンマ数秒の間に、私は最近料理をよくするようになって油断していたことを反省した。手なずけたつもりでいた暴れ馬をちょっとした不注意によって怒らせてしまい、急に振

          血液とナポリタン

          やさしくない日々【10月の短歌】

          我が家から夕景を奪いし隣人の小さな自転車盗まずにいる ニュートンが言っていたもの、いいじゃない万有引力布団の法則 にんげんがみんなおんなじほうをみていっしょうけんめい排泄する午後 神様もタモリもいない昼下がり ねむる私に宿題をください わたしにはわたししかない誰かにはなれないわたしわたしわたしは、

          やさしくない日々【10月の短歌】

          #裏方萌え

          先日、新宿の映画館で『ようこそ映画音響の世界へ』を観た。 この映画は、『スター・ウォーズ』など名だたる作品に命を吹き込んできたサウンドディレクターたちとともに、音響の世界と歴史を紐解いていくドキュメンタリーだ。 地下にある映画館の階段を上って、新宿の雑踏の音を吸い込みながら、私はやっぱり普段あまり表舞台に出ることのない、いわゆる「裏方さん」の仕事が大好きだなあとしみじみ思った。 自分の心のデータベースに「#裏方萌え」で検索をかけることができたら、たぶんものすごい件数がヒ

          タイムマシンはいらない

          時間が不可逆でよかった、と最近よく思う。 おそろしく優柔不断で心配性な私が、後悔だけは(ほとんど)しなくて済んでいるのは、「時間は戻らない」という全人類共通の暗黙のルールが存在してくれているからだ。 「どうしたって時を戻すことはできないのだから、今から頑張って最善の選択をしていけばいいのだ」という心持ちで生きると、ものすごく生きやすい気がする。 でも、さっき「ほとんど」とわざわざ書いたように、やっぱり後悔してしまう時もあるにはある。 というか私の日常には後悔すべき事柄

          タイムマシンはいらない

          ショートショート『テレホン・ラジオ』

           “散歩”を始めて七回目の夜、私と裕はだだっ広い国道をゆらゆらと歩いていた。  私たちの他に歩く人影は見当たらず、時おり乾いた風と車がアスファルトを擦る音を立てて通りすぎていくだけである。  ふと気が付くと目の前に電話ボックスがあった。それは途方もなく暗い海にポツンと浮かぶくらげのように発光し、周囲の生ぬるい空気を仄白く照らし出していた。なんとなく、この電話ボックスは何十年も前からこの場所で私たちを待っていたような気がした。  私と裕は足を止め、顔を見合わせた。携帯電話を

          ショートショート『テレホン・ラジオ』

          はじめてのCDは「好き」の表明、人間の温度

          私は「人がつくったもの」が好きです。 もっと言うと、人がつくったものに自分が出会い、好きになる、そこに生まれる「縁」と「熱量」に言い知れぬトキメキを感じます。 大人になると出会いも多くなりますが、子どもの頃は世界が狭かったぶん、出会いの密度が濃かったような気がします。 だからこそ、小さいときに何かを好きになって、自分から「これがほしい!」と思い行動することは、今より遥かにエネルギーのいる自我の表明だったのではないかしらと思う今日この頃です。 そんな私がはじめて自分で買っ

          はじめてのCDは「好き」の表明、人間の温度