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おいしいケーキと名探偵、夕方の散歩とときどき半沢直樹

その日も私は歩きながら、ひとりで泣いていた。
電車から降りて、午後三時のあたたかな陽射しの中をぼんやり歩いていたら、ふとしたはずみで急に泣けてきた。

困った。

人の目も多い道端で涙を浮かべていること以外に、困ったことがひとつあった。
自分が泣いている理由がよくわからなかったのだ。

ここ2年で涙を流すことが増えた。
そしてそのたいていの場合、私は自分がどうして泣いているのか判然としなかった。
直接的な原因は見当がつく。詳しく書くことは控えるが、2年前あたりから私は色々な人やものごとに別れを告げなければならないことが多くなり、そのひとつひとつに対する実感がふとした瞬間に襲ってくる。たぶんそれが涙の原因なのだと思う。

だが問題は、「どうしてそのことで泣かなければいけないのかわからない」ということだった。
冷静な頭の中では本気で「別に悲しいことじゃない」「こんなの泣くに値することじゃない」と思っているのに、心はなぜか押しつぶされる。おもりというより、まな板のようなもので胸のあたりが挟まれているような感じがして、気づいたら目が勝手に涙をぽろぽろとこぼしている。

私の心は自分でも気がつかないうちに、使い古したスポンジのように隙間だらけで、ヤワなシロモノになってしまっていた。

だからその日も、スポンジになってしまった心から、なぜかきゅうきゅうと浸みだしてくる涙を懸命にこらえながら歩いていた。どうして自分が泣き出しているのかよくわからなかったけれど、このまま家に帰ったら余計に泣いてしまいそうな気がして、うろうろしているうちに、近くの素敵な喫茶店に寄ることを思いついた。その喫茶店には2度行ったことがあり、どちらも私の中で嬉しい思い出になっていた。足は自然と、店のある方向に進んだ。

道中、私は倹約家(悪くいえばケチ)なので、その喫茶店ではなくドトールの安いコーヒーで済ませることにしようかとても迷ったが、グッとこらえて喫茶店の扉をひらいた。

こじんまりとした店内で、端っこの席に案内される。席につき、シックな調度品の煌めく店内を見回してふっと息をつく。それから手元のメニュー。どうしても甘くてみずみずしいケーキが食べたくなって、洋梨のタルトと紅茶を頼んだ。

ケーキをぱくぱくと口に運びながら、ときどき紅茶にミルクを注ぎながら、noteを書いた(前回の記事がたくさんの人に見てもらえたのは、この優雅なおやつのおかげなのかもしれない)。ケーキも紅茶も今まででいちばんと言っても良いくらい、とても美味しく、ぺろりと食べた。

カラン、という音を立ててお店から出る。人の声が静かな空気の中に柔らかく充満していた薄暗い室内から、車や雑踏の音がひしめく街に出ると、いつも生まれ変わったような気持ちになる。

あ~美味しかった……と、余韻に浸りながら夕方の街を家に向かって歩いているうちに、ふと、ついさっきまで自分が涙と格闘していたことを思い出した。おどろいた。私はそんなことを忘れてしまっていたのか……。喫茶店のケーキは、自分でも気づかないうちにふさぎこんでいた私の心を溶かしてくれていたのだ。
涙の原因を思い出したことでまた少し泣きそうになったけれど、さっきとは違って「私は大丈夫だ」としっかり思えた。無敵だった。

こういうときは景気よく、心から素敵だと思えるものに触れた方がよいのだ、と私は学んだ。

思えば、私はこういうふうに少しずつ、自分の涙と向き合ってきた。少し前の私は、心を扱うことが今よりもずっと下手で、泣くだけ泣いて、泣き疲れるのを待つことが私の涙への対処法だった。
けれどこれはあまり良くなかった。泣いてしまうのはたいてい夜のお風呂やベッドの中なので、そのまま寝てしまうと目が腫れてしまって翌日たいへんなことになる。

自分が「悲しい」と感じている理由がわからない、というか「悲しい」と感じても仕方がない側面もあるので、根本的な解決も難しいし、誰かに相談することも難しかった。さっさと泣きやんでしまいたい。

だから最近の私は、いくつかの「涙が勝手に出てくるときの対症療法」を見つけてきた。たとえば、さっきのケーキ。他にもこんな方法がある。

その1.名探偵コナンを観ること
以前熱も出ていて、熱のせいで泣いているのか、心が弱っているから熱が上がっているのかわからない状態のときに見つけた方法だ。小さい頃からずっと好きで身体に馴染んだコナンを観ていると、なんだかとても安心して、気付いたら涙が止まっている(人がゴロゴロしぬ話なのに安心するだなんて不謹慎な気もするが)。ジブリだとへんにスイッチが入って余計に泣いてしまうこともあるが、コナンはちょうどいい。

その2.夕方の散歩
まだ出かけられるレベルの顔のときに有効な方法だ。やっぱり身体を動かして外の風にあたることは、じっと脳みそだけ動かしているよりよっぽど良い。夕方は特に良くて、クリーム色や薄いピンク、水色からだんだん濃くグラデーションになってゆく空にダイナミックな雲が絵のように浮かんでいるのを見るだけで心がすっとする。街に並ぶ家々の西側の面が金色に照らされている景色は、泣き出したい気持ちを忘れてしまうくらい美しい。

その3.半沢直樹のモノマネ
これは、半沢直樹のセカンドシーズンにハマっていたときに生み出した荒業。道など人目がある場所でふと泣きそうになったら、脳内に半沢直樹のテーマを流し、堺雅人の顔マネをして颯爽と歩くのである。私はドラマを観ながら、「あれだけ理不尽な目にあっているのに、泣いたり愚痴を吐いたりせず、自分の正義を信じて『倍返しだ!』と言えるなんて、すごいなあ」と感心しており、「その精神の強さ、見習いたい……」と思っていた。彼の顔マネをすると、今の困難も大勝利への布石のような気がしてくるし、ついでに頬の筋肉も上がって涙が出にくくなるから一石二鳥だ。

……くだらないようだが、これらの方法が私にはいちばん効く。
こうして少しずつ、自分の心を手なずける方法を知ることが大人になっていくことなのかもしれない。

心の中はブラックボックスだといつも思う。
自分のことは自分がいちばん知っているはずなのに、コントロールできない感情がそこにはある。

心の中身は複雑で、私たちの手の届かない暗闇にある。どうしてあの映画で泣けて、同じように感動したはずのこっちの映画では泣けなかったのかわからない、なんて経験は誰にでもあるのではないだろうか。

持ち主にかまわず勝手に動いてしまう心なんて、本当に手を焼く。しかし、だからこそ愛しい。

心にちゃんと正面から向き合ったり、ごまかしてみたり、よくわからないままとりあえず手なずけてみたり。正しい答えなどないし、きっと人それぞれちがう。

私は私なりに、ケーキを食べたりコナンを観たり、散歩や半沢直樹の力を借りたり、また新しい方法を見つけたりしながら、これからも自分の心と付き合っていく。


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