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「悟るべき」という思考の考察

こんにちは、領です。

最近ふと思ったことを書いていこうと思います。

人にとって、悟りを最上のものとして目指すべき方向性に固定することは、宗教、スピリチュアル、オカルトであって科学・物理・数学ではありません。

「悟るべき」という一方向の価値は、オカルトでしかないです。

どんなに鋭い視点で語らていても「悟るべき」という立場からでは、オカルトの範疇を出ることはできません。

そもそも、「悟るべき」「悟りが人間にとって最上のもの」「悟りを得たブッダはすごい」「単独の個人が解脱する」
これらの、ときに強固な思考は、悟らせない(悟りを回避する)ためものになります。

自分の身体・思考・感情・意識を脱ぎ捨て、《人という現象》から抜け出してみます。
純粋な「観ている」という焦点だけになったと想像して、この世や《人という現象》を観照します。

水に油が浮いていて、洗剤をポタッと落とすと油がサッと離れます。
これは、洗剤を嫌って油が離れるのではなく物理的な作用です。
磁石のN極とS極が引き合うのは、愛でなく物理的な作用です。

純粋な「観ている」という焦点から観照すると・・・
《人という現象》は、物理的な要請に従っているだけです。
自由意思があると感じている現象が展開しているだけで、自由意思は存在しません。
引くか離れるか、それらが相殺した中間状態かという関係性の変化です。ただ縁起縁滅の法(万物の理論)に従って展開しているだけです。
原点から何度展開しても今と同じ世界が現われます。

油に、洗剤に対して広がるなと言っても広がります。

人に対しても感じませんか?どんなに言葉を尽くしても説得できないとき、どんなに訂正しても理解してもらえないとき、どんなにエビデンスを見せても納得してもらえないとき、何を伝えても同じ返答が繰り返されるとき、あり得ないような状況が世界で展開されても人々が受け入れているとき。

誰も本当の意味で賢くもないし愚かでもありません。独立自存の「本物の自由意思」は存在しないからです。

全ての現象は、全てと関係し合って存在を現わします。そこに「本物の自由意思」は必要ありません。

「悟るべき」「悟るべき、はオカルト」これらの思考や、この世に存在する相反するあらゆる思考を「平等に観る」と全ては重なり合って打ち消し合います。波の凸と凹が重なり合って高さゼロになることと同じです。このゼロ地点が悟りです。そこに「悟り」が現われるには全ての現象が必要ということです。
個人の努力で悟るわけではありません。その時代の全ての人が、一人も欠けることなく必要です。(わかりやすく書きましたが実際は全時空の全存在です)個人の努力で「全てを平等に観る」境地に至るわけではありません。全時空・全存在の関係性で、数式に従って、そこに「全てを平等に観る」という事態が生じます。

私は湯船で高波を作るのが好きです。水分子一個では不可能です。

何が言いたいかというと

「悟るべき」に受容的な存在。
「悟るべき」とはオカルトな範疇にあると考え、拒否的な存在。
この二つの方向性は、「悟り」の境地にとって平等という構造ということです。どちらの思考も真偽優劣は確定しません。

どんな人も、既に「悟り」を存在させることに関係しています。

そして

ゴータマ・シッダールタの悟り
アインシュタインの閃き
これらは、みんなのものです。

みんなも関係しているという意味で「みんなのもの」と書きましたが、ゴータマ・シッダールタの人生、アインシュタインの人生、これ自体が《自分》のものです。

純粋な「観ている」という焦点は、唯一として存在する構造だからです。

私の「観ている」と、この文章を読んでいるあなたの「観ている」は唯一です。

「観ている」という表現は、人間的で誤解を生じますが、今回はわかりやすく「観ている」を使いました(*^_^*)

ここまで読んでくれた方ありがとうございます。

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