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母にさようならを言われた日

その時はただ混乱していて、何とか自分と母を落ち着かせようとしていたのだと思うのです。

帰りに新幹線の中で、あれは、きっと、そういうことだったのだろうな。と自分のなかで何かがストンと身体の中に落ち着いた。あれは、もうひとつの世界へいってしまう前に、母が娘に言っておきたかったことなのだ。近すぎて言えないことってあるものね。ありがとうとそしてさようなら。

まもなく母は、私のことを忘れてしまうだろう。その前に言っておきたかった真面目でしっかり者だった母の「さようなら」の挨拶だったのだろう。
きっとそうだな、と思ったとたん涙があふれた。

最近では、かけたことを忘れて日に何度もかけてくる母からの電話も減り、語尾を上げながら伸ばす「ありがとうございました~」の口癖も減り、認知症が進んでいることはわかっていた。帰省する時には「お帰り、会えてよかった。」と言われると覚えていてくれた。と、ほっとしていた。

今年は母の米寿のお祝いをしようと、弟と相談をして久しぶりにみんなで温泉に泊まることにした。半年前から孫たちも休みを取り予定をあわせて、10年ぶりの家族集合。もう、こうして集まれるのも最後かもしれないから。

プレゼントを渡して記念写真を撮って賑やかに食事をして楽しい時間は過ぎた。部屋へ戻ってお風呂にでも行こうか、と話していると、にこにこして私の顔を見ていた母がじっと私の顔を見てこう言った。

「今日はずっとお世話になってありがとうございます。ごめんなさいね、年をとってしまって、よくわからなくなって。よく知っている方だと思うんだけど、どなたでしたか?」

一瞬、冗談を言っているのか?と戸惑った。悪い冗談はやめて、と喉元まででかかった私は、まじまじと母の顔を見なおした。なにか悪いものは憑いたのか?思考が停止した。

いや、そうじゃない。

自分の頭が理解するまでの時間はとても長く感じた。
母の顔を見ているはずなのに、母ではない誰かを見ているように感じる。私はなにを見ているんだろう?

私:やだ、ジュンコだよ。
母:どうして?そんな顔じゃないよ。
私:そんなもこんなも、わたしジュンコだよ。年を取ったからね、顔も変わったのかもね。ずっと短かったけれど伸ばしたのよ髪。
母:あら~、でももっとふっくらしてたよね?髪だって短かったし、年をとったから?え~でも違うよね、そんな顔じゃないもの。
私:家に帰ったら写真と比べてみてね。
母:ジュンコ、ジュンコって言ってたのに、わたしは顔がわからなくなったの?そんなことないよね。
私:わからなくなったんじゃないよ、私が年を取って変わったんだよ。
母:そうなの?私ね仕事をたくさんしててね、家のこととかあの人には、とても苦労かけたのよ。家のことやってもらってね、うんと感謝してるのよ。朝から晩まで仕事いくつもね、してたから。悪かった~って。。。
私:苦労したとか思ってないよ。しょうがないじゃない、そうやって仕事をしてくれたから暮らしていけたんだもん。


しばらく、そんなやりとりをしてみたけれど、母は納得しない。
環境が変わってストレスを感じているのだろう。混乱させてもいけないと思い、明日家に帰ったら若い頃の写真と比べてみることで、話は落ち着いた。

すると、
母:そうなの?あなたはジュンコのことを知ってるの?
私:知ってるも何も私がジュンコなんだけどね・・・
母:あなたはジュンコのこと知ってるの?そうなの?
私ね仕事をたくさんしててね、家のこととかあの人には、とても苦労かけたのよ。家のことやってもらってね、うんと感謝してるのよ。朝から晩まで仕事いくつもね、してたから。悪かった~って。。。
私:苦労したとか思ってないよ。しょうがないじゃない、そうやって仕事をしてくれたから暮らしていけたんだもん。

なんで今、そんなこと言うのさ!
心の中でつぶやきながら泣き笑い。
母は、ずっと私のことをそんな風に思っていたのか。
苦労したのはあなたのほうだよ。
感謝するのは私のほうだよ。

動揺動揺動揺。
私の心臓の鼓動は早くなったまま、悪い夢を見ているようだった。


翌朝、おそるおそる「おはようよく眠れた?」と声をかけてみると、「旦那さんはお風呂に行ったの?」というので、まだわからないままだった。
朝風呂にいこうと廊下を歩く母が、「みんなにお世話になって温泉にまでこられて幸せだ。お姉さんにもお世話になって。ありがとうね。私のほうがずっとお姉さんだけどね。」私の顔を見て「お姉さん、親戚の誰かに似ているんだよね、親戚だよ」と笑う。

こっちは、笑えないってば!

朝食の食卓へ向かうと、ロビーで一緒に暮らしている弟家族と合流した。母は、孫のそばにピタッと寄り添って私から離れた。どうして自分だけ他人と一緒に泊まったのかと思って、きっと不安だったのでしょう。

車の中でも口数は少なく、借りてきた猫のようだったけれど、家に戻ってしばらくすると、いつの間にか私の母に戻っていた。スイッチは切替わった。
弟と今後のことを相談していると母が会話に加わった。これからのことをちゃんと決めておきたい。という母は、いつものしっかりした母だった。

温泉の宿でも実家でも眠れないまま東京に戻る新幹線に乗った。いつもなら乗ったらすぐに寝てしまうのに、ぐるぐると頭の中が忙しく動いているのに何も考えてはいない。

ぼんやり流れる景色を眺めているとき、ふと浮かんだ。
ああ、そうか。
あれはきっと、もうすぐもうひとつの世界へいく前に言っておきたかったんだな。ありがとう。そして、さようなら。だったんだな。
私のほうこそ、ありがとうだよ。


だめだ、
書きながらまだ涙が止まらなくなる。
書き始めては泣いてしまって、進まないまま時間が過ぎた。

ありがとう、そして、さようなら。
もう時間はあまりない。

時間は命のしずく。

私は、悔いのない生き方をしているだろうか?
と思いながらこれを書いている。

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