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えんぴつとノート。(自己紹介)

「えんぴつとキーボード。」

初めて勤めた会社は IT 業界で SI 事業を中心に行なっていた企業でした。もう 30 年ほど前の事ですが、この世界では最も頼りになる入力装置がキーボードでした。今と違うのはそれがその時代のほぼ唯一の選択肢であったか、タッチパネルやマウスなどの数々の選択肢のうちの一つであるかくらい。そして途中に寄り道の転職は幾つかありましたが、今も再び IT で糧を得ております。このような背景がありますので自然な事とは思いますが、今でもキーボードは私にとって頼りになる道具ではあり続けております。しかし、同時にえんぴつと言う古典的な道具もまた頼りにしております。

「え?手書きですか?」

同僚や取引先からこう言われることがあります。会議中にメモをとる。同僚たちはノート PC で情報を書き留める。もちろん私も後に共有する必要がある正式な議事録を取る際はノート PC を用います。しかし、その役割が他の人にある時、私は普通のノートに手書きで記録しております。

若い頃は私もノート PC でメモを残していたものですが、あるとき会議が終わった後にその記録が何にも使われてい事に気付きました。キーボードを打つのが不得意とは思っておりません。こんな業界ですのでよりタイピングが速い人はおられますが、かと言って目立って遅い方でも無いくらいの自負はあります。記録する段階ではキーボードであることに何の問題もなかったのですが、その記録を後に活用する事がなかったところに問題があったのです。

「なんのための記録なのだろう。」

このような疑問を持ち始めました。すぐに結論を出せた訳ではありませんが、この自問はやがて自身を今のスタイルに落ち着かせるきっかけになりました。私の記録はただ保存されるためのものではないはずだ。残しつつ、どこかで使われる必要があるはずだと考えるようになりました。しかし、実際にはキーボードで記録した情報は保存されているだけになっていたのです。

会社勤めをするまではこのような事に気づくこともありませんでした。勉強であれ遊びであれ、私の記録は何らかに使われていたはずです。そうしてきました。何が変わってしまったのだろう。それが手書きかキーボードかの違いでした。手書きで情報を残していた頃は、その情報を目的通り使えていた。キーボードになって、その効力が失われていた。なぜだろう。

会議には目的があります。その目的に向けて行動するための記録であったはずです。ところが実際にはキーボードで記録された情報は使われておりませんでした。それにより、目的に向けて行動する上で、使える情報源が自身の記憶だけになっておりました。残念なことにそれほど有能な人間ではありませんので、かなりの漏れや誤った認識によりその目的達成の精度を落とした負の経験が多々あります。しかし、前述の気づきを得た以降、私は再び手書きを自身のワークスタイルに導入します。始めた当初は半信半疑であったのですが取り返しがつかないものでもなく、導入コストも驚くほど小さいものでしたので試してみたのです。

「書いているんじゃない、見ているんだ。」

どうもこれは自身の記憶のプロセスと関係がありそうです。私は物覚えに得意不得意がある自覚があります。人の名前を簡単に忘れる反面、風景の細かい情報を意識せずとも良く覚えております。聴覚から得る情報の記憶は苦手、視覚から得る情報の記憶は得意ということのようです。

IT 業界に長くおりますので、私もキーボードで記録する際にはキーボードも画面も見ずにタイピング出来てしまいます。一方、手書きではそうはいきません。自身の書く所作と書かれた文字を見続けております。ここに気付きました。キーボードは何も見ずに書けることで情報は私自身を通り過ぎ、そのまま PC に格納されてしまう。手書きであれば得意な視覚を使っており、情報は記録とともに記憶にも残る。ここに違いがあったようです。

記憶の得手不得手は人ぞれぞれでしょうから他の人にはさておき、少なくとも私には手書きであるという発見は様々な場面で以降の私自身を助けてくれました。

「ボールペンより万年筆だ。」
(と思っている時期がありました)

小学生の頃は鉛筆であった筆記具は高学年ではシャープペンシルに、中学生の頃にはボールペンに変わっていきました。高校は実業高校でしたのでレポートを書く機会があり、格段に筆記量が上がりました。

その際、長文を書くなら、と周囲の勧めもあってボールペンを万年筆に持ち替えました。確かに万年筆はメンテナンスなど多少ハードルの高いところもあったのですが、筆記の際の負担は大幅に軽減されました。このような経験がありましたので、キーボードから手書きに戻る際も万年筆から始まり、そこから 20 年くらいはずっと万年筆でした。

「えんぴつって、いいね。」

長く万年筆を頼りにしていたのですが、あるときを境に変わります。子供を持つようになったのです。そして、何でも親の真似をしようとするような子であったため、彼はいつの間にか勝手に私の万年筆でお絵描きをしておりました。万年筆は非常に優れた筆記具ではありますが、同時に繊細な道具でもあり、残念ながら幼児に扱って頂けるほどタフではありません。その上、そこそこ高価な道具でもありました。彼にはえんぴつを与え、私は万年筆を使う。これが理想ではありましたが、育児というのはそう期待通り進むほど簡単なものではありませんでした。そこで、仕方なくではありますが、長年頼ってきた万年筆をしまい、私も彼と同じえんぴつを手にすることにしてみました。しかし、それがえんぴつを適切に評価する機会になったのです。

えんぴつ、非常に優れた筆記具です。かつては小学生が使う安価でプリミティブな道具程度にしか考えておりませんでした。非常に失礼な扱いです。しかし、この歳になって改めて触れるえんぴつは全く異なる印象を与えてくれました。今では書類がボールペンでの筆記を要求しない限り、えんぴつを用いる生活になっております。

まず、えんぴつは思っていたほど折れないと言うのが大きな発見でした。子供の頃の負の体験はすぐに折れてしまい、都度削らなくてはならない大変面倒な筆記具というもの。しかし、実際はそうそう折れません。子供の頃よりも腕力はついておりますが、大人なりに手加減と言う能力も習得しております。そして、万年筆を長く使ってきた私には軽い筆圧で書く習慣が備わっておりました。えんぴつ、驚くほど折れないんです。

「えんぴつと言う筆記具を評価してみる。」

改めて私自身の筆記具の変遷を思い返してみると、えんぴつを評価した上で意図して選択すると言うのは人生で初めてのことでした。小学生あるいはそれ以前にえんぴつに触れたのは自身が選択した結果ではなく、それが与えられたからに過ぎませんし、他の筆記具との比較した事すらありませんでした。

えんぴつからシャープペンシルの際は周囲の影響が大半ではありましょうが、初めて自身の意思で筆記具を持ち替えた体験です。その利便性と、それが何となくカッコよく思えた理系と言うか工業系男児による選択だったかと思います。

そこからボールペンに移る際には筆記を消せなくなるけど、それが大人っぽいと言う葛藤の中で背伸びすることを選択した記憶があります。そのコントラストの高い油性インクによる筆記はノートにくっきり残り、また異なる色を併用することでノートの書き方に変化があった時期でもあります。綺麗なノートを書けたことに満足していた時期でもあり、授業から知識を得たかどうかは二の次でした。実際、その後の学歴を考えると、知識は得ていなかったと言わざるを得ません。

ボールペンから万年筆への変化、万年筆からえんぴつへの回帰についてはすでに触れました。えんぴつはかつて使っていたために、知っていた気になっておりました。しかし、同じ道具の知らなかった良さを発見したのです。えんぴつは折れないから即ち良い道具と言うわけではありませんが、折れるから良くない道具と言う思い違いが明らかになったのです。折れないなら、他の筆記具と対等に比較できます。つまり、初めて土俵に上がったのです。

「問題ないなら、問題ない。」

えんぴつ以外に経験した筆記具はうまく書けている時には非常に頼れる反面、とてもストレスに感じていたあることが共通していました。それが突然書けなくなると言うことです。シャープペンシルの芯、ボールペンや万年筆のインク、当然ながら無くなれば書けなくなります。インクの残量が見えるように透明な軸もあったりしますが、それでもインクが見えているにもかかわらず書けなくなるトラブルが存在します。それらは筆記具につきものくらいに思っていて、ストレスではあるけど避けられないものと考えておりました。

しかし、えんぴつは違ったのです。もちろん芯は減って短くなります。しかし、芯が見えている限り書けないと言うことは発生しないのです。この安心感はえんぴつに対する評価を、頼れる筆記具の位置に引き上げる大きな要素になりました。えんぴつは見た目に問題無いのであれば、その通り問題なく筆記出来る筆記具なのです。

「黒鉛って、いいね。」

えんぴつの芯に使われている黒鉛と言う素材もまた面白い要素でした。かつての記憶が頻繁に芯を折っている頃のものですから、これが大人になって折らずに書ける様になっていることと、三菱鉛筆の Hi-uni や、トンボ鉛筆の Mono 100 など当時なら買うことのなかった良いえんぴつを躊躇なく買えるようになっていることも新たな変化です。こういった変化を経た上で書くえんぴつの書き味というのは他の筆記具にない独特のものでした。

黒鉛は工業的にも非常に摩擦抵抗の小さく滑りの良い素材です。実際、ノートの上を文字通り滑って筆記できます。万年筆を選んだ際に感じていた軽くて疲れない筆記、えんぴつも同じ特徴を持っていたのです。加えて、紙を選ばない万能性も持ち合わせております。

ボールペンや万年筆はいずれもインクが裏面や次のページに写らないか、ノートを買う際に慎重になったものですが、えんぴつはおよそ紙と呼ばれているようなものであればほとんど相性の問題を起こす事なく書くことが出来ます。疲れず、どんな紙にも書ける。えんぴつは頼れる筆記具として評価されるべきだったのです。

「音と香り。」

あとはかなり主観によるものではありますが、えんぴつを独特たらしめている要素として音と香りをあげられます。音は削る時の音と、書く時の音の 2 種類。どちらもえんぴつならではのもの。後者は紙の種類によって多様な音を聴かせてくれます。そして、何よりも香り。えんぴつの軸はインセンスシダーと言う名前が与えられているほど香りの良い木が使われており、実際その香りはどんな方の記憶にも残っているのではないかと思います。

もともと油性ボールペンインクのねっとりした人工的な香りや、ペリカンの万年筆用のブルーブラックインクの鉄が錆びたような香りも好んでいたようなフェチズムの持ち主でありますので、えんぴつの木の香りはより自然に近しいものとして非常に心地よく楽しめております。筆記の合間に芯の先端付近の木の香りを楽しんで気分転換を図ると言うことを何度して来た事か。

「筆記具はえんぴつ、ではノートは?」

このような変遷あって筆記具はえんぴつに落ち着いております。そして、えんぴつは紙を選ばない筆記具であることも触れました。次は何にでも書けることを認識した上で、何に書くのかです。

万年筆の頃にはとても使えなかった紙が使えるようになりました。万年筆はそのインクの特性上、特に紙を選ぶ筆記具であり、選択肢は少なく、かつ割と高価な紙に偏りました。つまり、万年筆で使える紙、即ち高い紙と言う傾向があったのです。そういう中で良い紙を探して回るフェチズムも存分に楽しんできたのですが、これがえんぴつになると途端に選択肢が広がります。液体で書く万年筆に対して、固体で書くえんぴつ。そもそも物理的特性が全く異なる訳ですから、紙に対しても万年筆の時とは異なる評価が得られるようになります。

「コピー用紙って、いいね。」

万年筆であればまず滲み具合や、裏面への抜け具合などを気にしたものですが、えんぴつの場合はそれらは杞憂です。結果、万年筆では使えなかった紙、つまり安価な紙が土俵に上がってきます。代表的な例はコピー用紙です。規格化されており、多くの需要がある関係で非常に安価に手に入れられます。そして、その紙は万年筆で書くと残念なものになりますが、えんぴつであれば問題がありません。問題なく書け、安く、市場で容易に入手できる紙には必然と高い評価が与えられます。とりあへずの道具としては充分に及第点です。

「MD ノートって、いいね。」

しかし、無味無臭の道具として頼るのであればコピー用紙で良いのですが、フェチズムとしての紙選びとなるとコピー用紙には風情が無い。普段使いとは別な紙選びも必要です。そうなると先程触れたえんぴつが奏でる音の要素がポイントになります。筆記する場面によっては音がしないことも重要な性能指標かもしれませんが、今回はフェチズムの世界ですので音が聞こえることは最低条件になります。

まずその音量、そして音の質と言うことになり、紙の目の粗さと硬さがそれらを左右する要素となります。どのような音を好むかは全く主観の世界ですので他の人々の賛同を得ようとは思いませんが、私は抵抗感のある軟質かつ比較的低い音を好むようです。選んだ紙は比較的厚みとザラつきのある MD ノートの用紙です。

先程はあれほど万年筆とえんぴつでは適した紙が異なると言っていたのですが、この紙は別格です。万年筆に対しても、えんぴつに対しても優れた特性を持っています。やや厚めの紙は筆圧の加減を紙が吸収し、濃淡や太さの変化として表現してくれます。ややザラついた紙は滑りすぎることなく筆記を安定させてくれます。そして、それらが奏でてくれる音はザラつきによる存在感ある音量と、柔らかい紙による低い音として耳に届きます。そう、これが私の紙のフェチズムです。

「罫線に収まりません。」

ノートの紙が決まると、次はフォーマットです。MD ノートは主に無罫、横罫、方眼、ドット罫などから選べます。選べると言うと響きは良いのですが、選ばなくてはなりません。色々試して自身が心地よく書けるフォーマットを選ばなくてはならないのです。

この中でもっとも相性が悪かったのは方眼とドット系でした。筆記の際にチャートなど図形を描くことがあります。緻密さや正確に描くのであればこれらのノートはとても頼れるものになるのでしょうが、綺麗に書ける能力がある訳でもない私には従えないルールのようなものでした。横罫はそこまで邪魔にはならないものの、文字を書いてもそこに収まらないのです。

私が誰に見せるでもなく、自分のための筆記をする場所がノートですから、ここは他の人々にも読めるような丁寧な文字は書かれません。丁寧さとは対極的に自身が持つ最高速度での筆記が行われる場所です。そのような高速域での筆記となると、罫線は文字列が上下に乱れない程度のガイドラインとしては頼りになるものの、文字が必ずしも罫線に収まらないのです。

結果、私には無罫が良いようです。フェチズムを必要としない際の普段使いの紙であるコピー用紙も無罫ですから、それに慣れていることから考えても当然の帰結です。

「書く速さ、それは考える速さ。」

見たものは割と覚えている私ですが、見ていないものは容易に忘れていく。この特性は思考にも当てはまります。つい先程思いついた何か良いアイデアも簡単に忘れていきます。なのでそれを見えるようにする、つまり筆記することは私にとって重要な作業です。考えるのに書く必要はないけれども、それを使うために残す過程で筆記と言う作業が必須なのです。

その筆記が遅ければまだ書き終わっていないから、と思考の方が待つことになります。つまり、書く速度が思考のボトルネックとなってしまうのです。書くのが速ければ速いほどより思考できるし、書いたことでそれを実行に移せるようになると言う自分自身の発見です。

「英語、それも筆記体で書かれているなんてすごいですね。」

会議のメモを盗み見してきた同僚に言われました。いいえ、日本語です。

私の筆記はとんでもなく読みづらいです。私自身がそう思うくらいですので、他の人々には更に困難な事でしょう。もちろん他の人々の目に触れる事を想定した際の筆記はそれなりに丁寧に書きますが、自身のための記録の際は全く異なる書体になります。その結果、前述のような印象を与えたようです。

先程触れたように、ノートは自身が持つ最高速度での筆記が行われる場所です。当然、書体も速さに対応したものになっており、それが英文の筆記体のような印象を与えたのかもしれません。後に速く読めることは目的になく、読むときに多少難儀したとしても速く書けることが重視されております。

手書きの良さは書きつつ見るところにあると述べましたが、この要素はこのような速度重視の筆跡でも機能することがこれまでの経験で分かったことです。これを実感すると私の書体はより一層、自信を持って高速筆記に適したものへ、より崩れていったのです。横書きの草書?そこまではかっこよくありません。しかし、これが私のフォントだ、と言えるくらいには私の中では定着した書体です。

「デジタルの利点と欠点」

デジタルな情報の利便性は高いです。検索は非常に高速で、欲しい情報にすぐに辿り着けます。そして、情報量に対してとても小さく持ち運ぶことも可能ですし、必要であれば何度でも書き直すこともできます。そして、圧倒的な強みは劣化することなく、複製して共有が可能であり、ネットを通じて発信出来る事にあると考えております。IT 業界で糧を得ておりますのでこう言う利点は否定しませんし、多分にここから恩恵を得ております。他にも利点は様々ありますが、端的に表現するとデジタルの強みは膨大な情報から適切にフィルターされる事で必要なものを得るのが容易なことと考えております。

一方でデジタルにはデジタルの欠点もある事がわかってきました。雑に言ってしまうと、デジタルでは能動的にしか情報を得られない。探しに行ったときに見つけられる強みがある一方で、探そうとしていないときに偶然的に情報を得るようなことがほとんど起きないのです。

例えるなら膨大な量の商品を販売している Amazon.co.jp、その起源であるインターネット上の書店として彼らを見た際には、欲しい本は大抵探し出せ、そこで確実に購入することが出来る非常に頼れる存在です。一方で、街の書店の重要性が薄れたか、と言うとそうでもありません。これと言って欲しいものがある訳でもない時に訪れ、その視界に入った何らかの本の表紙、あるいは POP によって購買意欲を掻き立てられると言うことがあります。そこから立ち読みなどを経て購入するまでの体験が一貫していると言う点で依然優れた存在と言えます。

また、デジタルは昨今の大型ディスプレイをもってしてもまだまだ表示できる場所が限られております。対して紙はあらゆるところで情報を可視化してくれ、そこには電源操作なども必要なく、常時表示が可能です。書店で得られる体験はまさにその要素であり、見える状態で陳列されていることにあります。これは個人が扱う情報でも同じであり、付箋に書いたメモはそれが必要ない時ですらそこにあって、私にそれを思い出させてくれます。もちろん余計な時もあるのですが、思いがけず行動を喚起してくれたことも多々あり、その価値は非常に大きいと考えます。

これは情報を探しに行かないといけない、あるいは限られたところにしか表示できないデジタルでは再現が困難な要素です。強みであるフィルター能力のトレードオフとも言えそうです。そして、冒頭で触れた会議の記録が利用されることがなかったのもこの要素による部分があったように思えます。

「使い分ける。」

当然の帰結はデジタルと紙の両方の使い分けという事になります。これは同じ市場を食い合う排他的な競合なのではなく、自動車文明が栄えた今でも徒歩での移動がなくなった訳ではないことと同じ共存可能なものと考えられます。徒歩向きな目的地と、車向きな目的地があり、更にその境には徒歩で行っても良いし、車で行っても良い近所のラーメン屋のような曖昧な存在もあります。これらの境界は白黒はっきり分けなくてはならないものではありません。

異なる例では、かつて明治維新の直後から明治初期には人々が西洋かぶれとなり、日本古来のものより西洋から伝わるものが優れていると錯覚しました。これもやがて明治も中期になる頃には落ち着き、かつて日本が古来から持っていたものの中にも西洋に負けない優れたものや文化があることが再認識されましたし、後期になると日本古来の美意識と西洋の手法が混ざり合うことで生まれた日本ならではのアール・デコのような新たな様式が創造されました。

このように、新しい手法であるデジタルだけで物事を完結させようとせず、えんぴつとノートの様なより古典的な手法の良さを再認識しつつ、その時代にあう新しいスタイルを実現できるようになりたいと思うのです。

「えんぴつとノート。」

ここではえんぴつ自体、あるいはノート自体を主題にしているという訳ではありません。道具が持つ本来の目的を改めて考え直したとき、新しい世代の道具が常に最適とは限らないことを忘れず暮らしていきたい。そんな象徴としてえんぴつとノートと言うちょっと古典的な道具を選んでタイトルにしてみました。

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