見出し画像

変わり者と言われ、普通とは何かを問う

変わってる。
 

そう言われた事が一度はあると言う人

ずっと言われ続けた人に向けた私の考察。



幼少期より手がつけられない
そう親に言われて来たのだが、私は普通とはなんだろうかとずっと考えている。


みんなならこうするだろう
社会では
普通はこうだ


このような言葉を投げかけられて来た訳だが、果たしてその人たちの概念はずっと変わらないのだろうか?



"10年前の普通"と
"10年後の普通"は違うのではないか?


今いる家庭の当たり前と
友達の家庭での当たり前は違うように。



大勢多数の普通と
個人レベル
家庭レベル
環境レベルの普通が存在するのではないかと私は考えた。
職場が変わるという経験をした時や、転校生の経験を通してそう感じた訳だが、今の環境、所属する社会に置いてあなたが変わっていると言われているのであればそれは異質、または、今までのイデオロギーとは違う存在という事だろう。



人は同じ行動や考えを反芻する事によって人格を形成していくとするならば、そのリズムにあなたという存在がノイズのように感じでしまっているのだろう。



普通。と言われる概念は確かに存在する。
それが悪いとは言わないし、集合体としての生活を営むには最低限のルールが必要になってくる。



要は普通、当たり前を繰り返す事によって一種の自我を保っているとも言える。



では、そうではない変わっていると言われる人は自我を保ててない、ダメな存在なのか?というと決してそうではない。 


長く染み付いた集合的なリズムやルールに則って生きてこなかったのだろう。


私の相談者の中でも変わり者と言われる人達は仕事を自ら行なっている人が多い。
指示を受けての仕事をするとなると、上の人の当たり前、会社の当たり前、などに触れてしまい、相手が求めるリズムを刻まないといけないので、いつか変わり者と言われる人は違和感を感じる。



幼少期から大衆とのリズムの違いを感じている人がいるのなら、まずは自分のリズムを掴んでみてほしい。


それはやりたい事かもしれないし
夢かもしれないし
夢中になれる何かかもしれない


何が落ち着くかを知るのも良いし
家庭の中でも自分を守れる何かを作ってもいい



集合は異質のリズムを弾く
それは、あなたが同じリズムではない。というだけであって否定されているという訳ではない。(否定的な言葉を投げられる事の方が多いと思うけど)




本当は一人一人が違う存在、他者ではあるのだが
集合という名の下に自我を抑制してしまう事がある。



最近だと、個々人のリズムが違っていてもその特徴を上手く活かして活動している人達も出てきた。



自分で選んだからこそだろう。




現在進行形で苦しい、生きづらいと思っている人がいるならば

自分を知り

相手との波長のタイミングを調整してみてほしい。

決めつけないということも大切になってくる。


変わり者というのは否定ではなく、リスペクトの念も入っているので、言ってきた人はあなたの事が羨ましいという気持ちを少なからず抱いている事だろう。



投げやりにならず。
己を知った時
私は私のやり方。を見つけるだろう。



それを掴み、また手放し人は成長をしていく。





今日も皆様に幸あれ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?