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恩田陸『spring』(毎日読書メモ(535))

4月に刊行された恩田陸『spring』(筑摩書房)を読んだ。雑誌「ちくま」に2020年から2023年にかけて連載されていたバレエ小説。

バレエ。その鋭さ、その華やかさ、その躍動感、それをどう言語化するのか。その試みは、かつてピアノコンクールの情景を言語化してみせた『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)に通ずるものがある。というか、先行する『蜜蜂と遠雷』を意識せずには読めない。それがこの小説にとって幸福だったのか不幸だったのか、わたしにはよくわからない。

主人公、萬春よろず・はる。バレエを踊ること、そして振り付けることが天命と、自他ともに認める天才。

自らをHALと呼んで、と言う、コスモポリタンな春は、長野県に生まれ育ち、ふとした偶然で世界的バレエダンサーだったバレエ教師に見いだされ、才能を開花させる。15歳でドイツのバレエ団のスクールに入学することとなり、そのままそのバレエ団に属し、ドイツで活躍することになる。
この小説には天才しかあらわれない。挫折とか、自分より優れた者への嫉妬などは描かれない。誰もトウシューズの中に画鋲なんて入れない。努力が出来るのも才能だと思うのだが、努力をして、それが報われる、そんな人たちが次から次へと現れる。その中でも際立つHALの特性。言われれば、女性ダンサーのパートもさらっと踊って見せ、妖艶にもなり、役の中性度を上げる

天才は、他者に理解されず、孤高を貫く。他の天才たちとの交流から多くのものを得られるが、馴れ合うわけではなく、常に自分という個を持つ。

『蜜蜂と遠雷』では4人の才能あるピアニストたちに、ピアノコンクールと言う短期集中の場で、それぞれの人生を振り返らせ、その挫折と克服を描いたが、『spring』はロングスパンで春という天才の人生を語る。「ここではない」感にさいなまれ、他者となじむことなく育った子どもが、バレエと出逢い、それまでに蓄えたすべてをバレエに注ぎ込み、バレエと言う枠組みの中で表現できるものを開陳していく。

小説は4章に分かれていて、第1章は、HALと同じ年で、同時にドイツのバレエスクールに進学したダンサー深津純の語り。親の代からのバレエダンサーで、自分を採用するための出来レースオーディションだと思っていた選考で、HALの踊りを見て圧倒される。純もまた天才なので、バレエ団のプリンシパルとして活躍し、プリンシパル昇格祝いにHALが振り付けてくれた「ヤヌス」で、HALとの黒白表裏一体のバレエを披露する。
第2章は、HALの叔父、稔の語り。大学で文学を教える稔は、HALの祖父母から相続した家で、大量の本やレコードに囲まれて過ごし、そこへ遊びに来るHALは幼少時から文化的薫陶を浴びるように育っていた、という経緯を丁寧に語る。エリナー・ファージョン『ムギと王さま』を彷彿とさせる、脈絡なく豊かに築き上げられたバックグラウンドが、その後のHALの創作に大きな影響を与えたことがよくわかる。稔の飼っていた犬イナリを可愛がっていたエピソードは、全編に拡張していて、この小説はバレエ小説であると同時に愛犬小説でもあった。
第3章は、HALと同時期に長野でバレエを習っていたが、バレエよりも音楽表現により強い意欲を示し、作曲家となった滝澤七瀬が、自分の行動でHALにインスピレーションを与えたり、バレエ団の委嘱で曲を作ったり編曲をしたりする経緯を丁寧に語る。既存のクラシック曲も、架空のコンテンポラリーの曲も、読んでいるとイメージが頭の中で湧いてくる。
そして第4章は、HAL自身の語りである。こういう誰かの生涯を描く小説は本人に語らせず、周囲の親しい人、恋人、憎んでる人とかいろんな立場の人に書かせるのが王道では、と思ったが、成程、本人にしか語れない特殊な事情をこうやって語らせるか、と納得。

『蜜蜂と遠雷』は、ピアノコンクールのリザルトを表記して終わり、この小説には結末はなかったのね、という気持ちになったが、『spring』は、HALが全幕物のソロダンスを自ら振り付けて踊るシーンで終わる。曲はストラヴィンスキー「春の祭典」。HALだからこそ春の祭典、と、ダジャレのような、でも本人にとってはこの曲で踊らなくてはという必然性を縷々語り、最後は頭の中で「春の祭典」を鳴らしながら、HALの心の軌跡をなぞる。ラストシーンネタバレしても、小説の魅力には全く影響がない、というか、この小説はストーリーを追うことは目的にはならず、天才たちがそれぞれにどう感じどう表現しようとしているかをどうやって小説という形で表現するかの挑戦を、読者がそれぞれの経験によって、イメージしていく、そういう小説であった。

バレエをよく知っていればもっと楽しかったと思うし、文中に出てくる様々な音楽や舞台や映画など、引き出しが多ければ多いほど堪能しやすい、でも、まっさらな状態で読んでもワクワクする、そんな小説だった。ピアソラの音楽を使った「蜘蛛女のキス」、HALのモリーナ役で是非見てみたかった。

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