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村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)

村上主義者なので、村上春樹の新刊が出たらとりあえずすぐ買う。普段なら予約なんてしないで、発売初日に本屋に買いに行くのだが、このご時世なので、やむを得ず、通販で買う。本屋さんごめんなさい。ポストに入っていた包みを見て「ちっさ!」と思う。ハードカバーで新書サイズ。あとがきまで入れて101ページ、そしてそのうち16ページが、表紙も描いている台湾のイラストレーター高妍(ガオ・イェン)の挿画である。文章自体は「文藝春秋」2019年6月号に掲載されたものを微修正しただけのものであり(彼の本にしては珍しくあとがきが4ページ分あるが)、他にあわせておさめられる同類の文章がないという事情をかんがみても、村上春樹だから作れた本だな、というのは思った。そういう本も含めいちいち全部買っているわたしもわたしだが、そういう人がほかにも沢山いるんだろう、ということにも驚かされる(わたしの直接知っている人の中にはそういう人はいないんだけどね)。

長いこと確執があって没交渉だった父親と、病没する直前に会い、話をして、ある程度の和解を見た、と村上春樹は語る。親子関係はひとつひとつ全く違った姿をしたものなので、読んでいる限り、わたしにはそれが和解だったのか、よくわからない。しかし、父親の没後、彼は父親の歩んだ道を辿ってみる。今年、舞台「ねじまき鳥クロニクル」を見るにあたって、久々に『ねじまき鳥クロニクル』を読み返したこともあり、彼の中にある日中戦争は、自分の父親が体験したものを想像し、そこからイメージを膨らませたものであったのであろう、ということがこの本から伺われた(勿論小説の登場人物が体験したことは彼の創作だが)。長いこと、直接対話することすらなく生きてきたが、自分の父親の人生について、彼はかなりきちんと調べあげている。比較するのもなんだが、わたしは自分の両親の人生についてなんて何も知らないも同然だ、と読んでいて思ったさ。

文章の中で、父親が自分に何かを期待していたこと、自分がそれに応えなかったことが父親をがっかりさせ、確執の原因となったように、息子の側から書いているが、実質的な断絶の様子が描かれている訳ではないので、実際のことは読者にはわからないし、勿論それを解明するのがこの本の趣意でもない。運命という長い川の中で、色々な偶然や必然の結果として、彼が自分の父親となり、彼女が自分の母親となった、その結果として自分が生まれた。何かが少しでも違えば自分は存在しなかった、ということは、戦後すぐの生まれの人間誰もが持つ感懐かもしれない。そして、そうして父と母のもとに生まれた一人の人間として、成長の過程で有形無形の様々なものが親から伝えられ(例えば父親がガラスケースに入った菩薩像に向かって毎日お経を唱えていたこととか)、それが目に見える形でなくてもなんらかの姿をとって自分の中にも沈殿している。

漠然と、「伝わる」ということがこの本のテーマだろうか、と思った。

最初、広告とかで高妍のイラストを見た時は、これまでに村上本の装丁をしてきた佐々木マキ、安西水丸、和田誠などと風合いがあまりに違うので、違和感があったが、本を読み進めていると、不思議なくらいしっくりしてきた。この本の中で大切な狂言回しとなっている猫たちの姿を彷彿とさせるつぶらな瞳の猫たち、そして息子という姿をとった村上春樹を彷彿とさせる少年像。文章が画像に引きずられまいとしている部分(父親の戦争体験を語っている箇所など)ではイラストは入らず、父と子の触れ合いの部分で入るイラストが不穏さや切なさのバックグラウンドとなる。

丁寧に作られた本であることはよくわかった。でももう少しコスパがよくてもいいのでは、と思わずにいられない...。

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