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小池真理子『神よ憐れみたまえ』(毎日読書メモ(306))

小池真理子『神よ憐れみたまえ』(新潮社)を読んだ。圧巻の570ページ、一気読み。
本はジャンルで読むわけではないが、どちらかと言えば、ミステリにはあまり興味がないかもしれない。読まない訳ではないし、読めばそれなりに手に汗握って、面白く読むのだが、傾向として優先順位は低い。
言い訳ではないが、そういうことで(そういうことでなのか?)小池真理子の本は殆ど読んでこなかった。でも何故か、『神よ憐れみたまえ』はすごく気になった。そして読み出すと、心臓を掴まれたみたいになって、必死に読み進めた。
物語は、殺人者の心理描写から始まる。あっという間に、女が死に、それが衝動的な殺人であったことが暗示され、犯人が、物取りの犯行であるように見せかける細工をしている途中で、出張に行って帰ってこないと言われていた女の夫が帰ってきてしまい、結果的に夫も殺される。
という訳で、このミステリはフーダニットではなく、ホワイダニットの物語である、と言える。そして、実際にはミステリというよりは、父母が惨殺され、残された十二歳の一人娘の成長物語である。
事件が起こったのは1963年11月9日。殺人は大田区久が原の豪邸で起こり、逃走中の犯人は、鶴見事故、と呼ばれる、国鉄の多重脱線死傷事故に巻き込まれ、結果的にそれが犯人のアリバイ作りに功を奏してしまい、衝動的で穴の多そうな事件だったにもかかわらず、警察はホシをあげられないまま時効が近づく。
両親を殺された少女百々子は、近くに住んでいた家政婦の家に身を寄せ(設定として読むと違和感があるが、物語が丁寧に書かれていて、人間関係の深さから、少女がその家に行くことは極めて自然に描かれる)、犯行のあった家が取り壊され、少女の祖父母が函館から出てきて、建て直した家に住まって少女を引き取るまで、何年も家政婦の家で暮らす。祖父母は遠い存在で、父母を亡くした少女が心を許せるのは、母方の叔父と家政婦の一家だけだった。
もともと利発で、音楽の才能があり、勝気に生きてきた百々子は、両親の死に泣き崩れたり、自我を失ったりすることもなく、強く美しく育つ。生活の苦労はなく、エスカレーター式で上がった大学の音楽科でピアノを学び、ピアノを演奏したり教えたりすることで身を立てる。世間の耳目を集めた殺人事件の遺児として、一時マスコミに追われたこともあり、コンサートピアニストとして名を上げようという気持ちは持たない。ずっと、家政婦のたづの息子に片思いをしながら、気持ちは受けとめてもらえず、熱烈に求愛してきた大学の先輩と付き合いながら、片思いの気持ちはいつまでも持ち続けているアンビバレントさ。
強い気持ちと、物語全体に漂うきしみ。百々子のように美しく、気丈で、才能に恵まれた少女が、何故、なんでもかなうような生涯を送れないのか。十年以上にもわたり、百々子とその周囲にずっと警察の捜査が及んでいるのに、何故犯人は捕まらないのか。
ようやく見えたほころびをきっかけに、犯人のホワイダニットが詳述され、事件の真相が明かされるが、それは物語の終わりではない。この物語の真骨頂はその先にあった。570ページある物語の最後の60ページ分が終章で、百々子のその後が一気に語られる。あまりに一気に語られ、不幸も幸福もあざなえる縄のよう、とはこのことだ。そして、物語の終わり近くなって、百々子の「私は自分が特別に不幸な運命を背負って生まれた人間だったとは思っていない。思ったこともない」というモノローグを読んでぶっ飛ぶ。喪われたものの大きさを、ここまでずっと実感しながら読んできた読者に対して、主人公は「不幸ではない」とここまできっぱり言い切れるのか!
百々子の「強さ」に心打たれ、頁を閉じる。

毎日通勤していた頃、新聞を読む時間が取れず、朝夕の新聞の頁を開くこともなく古新聞に出してしまうことが結構長く続いたのだが、コロナ禍で在宅勤務生活が続く間に、通勤にあてていた時間で新聞を読む習慣が戻ってきた。習慣が戻ってきたころ、土曜日の別刷りに、小池真理子の「月夜の森の梟」というエッセイの連載が始まった。連載の直前に、夫藤田宜永を亡くし、1年にわたる連載はひたすらに、軽井沢の自宅で暮らしながら、亡き夫を思い、偲ぶ内容だった。ずっと夫の話をしているのに、毎回毎回が新しく、様々な角度からずっと喪失の姿を描き続け、読者を飽きさせない。作家の業の凄さに圧倒され続けた。
『神よ憐れみたまえ』は、10年以上にわたって構想され、書下ろしとして発表された小説だが、その10年の間に、作者は母を看取り、夫の闘病に寄り添い、書いていないときは看護、という生活を送っていた。私生活と作品は直接はつながらないものだとも思うが、作者の鬼気が、主人公百々子の「それから」に乗り移っていたような気がした。

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