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井上荒野『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』(毎日読書メモ(448))

井上荒野さんの小説が好きで、『切羽へ』で直木賞受賞される前からずっと順々に読んできたのだが、こんなにもストレートに問題提起する小説は初めてだったかもしれない。『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』(朝日新聞出版)は、2020年から2021年にかけて「小説トリッパ―」で連載されてきた小説。表紙のインパクトもすごい(装画リトルサンダー、装幀佐藤亜沙美で、横たわり、鼻血を拭こうとしている女性の絵)。
物語は、現在~七年前~現在~二十八年前~現在の5章。七年前、カルチャーセンターの小説講座に通い、講師の月島光一(元編集者)から性的関係を強要され、講座に通うことも出来なくなり、小説を書くこともやめてしまった咲歩さきほは、自分が小説を書いていたことを知らない俊と結婚し、過去のことを忘れよう忘れようとして生きてきたが、小説講座の弟子が芥川賞をとったことをきっかけに露出の増えた月島の顔写真を新聞や雑誌で見かけるだけで苦しくなり、このままでは暮らしていけない、と、週刊誌に月島を告発したい、と連絡を取る。
7年前に何があったか、そして告発したことで咲歩の生活がどう変わったか、月島、そしてその家族や今小説講座に通ってきている生徒たちが何を思っているか、を本筋として、時制を前後させながら描くのと並行して、セクシャルハラスメントの告発をきっかけとした社会的な状況を、変奏曲的なエピソードを挿入して、あぶり出していく。例えば、セクハラの告発を見て、Twitterに、告発された男の方が被害者だろ的なハッシュタグを付けてツイートする若者、創作の現場で、強い立場を利用したセクハラがまかり通っている事例が週刊誌で特集になり、動揺する俳句結社の先生を取り巻く女性たち、月島自身の結婚の経緯が既にセクハラ的であり、そんな父に反発して家を出た、ミュージシャン志望の娘も、バンドのデビューの足掛かりとして、音楽プロデューサーからセクハラ的行為を受け、そこから逃げたためにバンドにいられなくなった、という過去があったり。

毎年職場でハラスメントの講習を受け、ハラスメントとは、優位な立場にあるものが、その優位を利用して、相手を傷つけ、おとしめる行為である、と繰り返し学んできた。職場には通報窓口があり、困っている人は相談するように、とも教えられるが、あれは機能しているんだろうか、とそこはかとなく不安を感じたりもする。
そして、告発したことでセカンドレイプ的に苦しむ人も出てくるだろう。この小説の咲歩も結果的に仕事を辞めることになり、夫との仲もうまくいかなくなる。
ハラスメントを受けた側がより苦しみ、状況が改善しないなんて、わたしたちはなんと理不尽な世界に生きているんだろうと思う。

しかし、声をあげた勇気は、次の一歩への足がかりとなった。様々なエピソードが紹介され、アンチ的な反論も出るけれど、それがすこしずつ押さえられていき、#MeTooは、徐々に、しかし確実に、泣き寝入りしていた人たちに救いを差し伸べる。月島の小説講座から、最初に芥川賞をとった弟子の小荒間洋子も、咲歩の勇気に感じ入り、月島に頼み込まれて擁護するための対談に行った先で、やはり擁護は出来ない、自分も被害者だった、と告発する。
最初は、自分が知らなかった時代の妻がそのような目に遭っていたことに嫌悪感を抱いていた夫も、少しずつ咲歩の告発の重みを理解し、小説はやや牧歌的ともいえる楽観論をもって閉じられる。抱えていたテーマが余りに重いので、そのささやかな救いは、思った以上に心を温め、読後感を善いものととしてくれた。
希望を抱いていけない訳がない。

完全に対等な人間関係は存在しないし、平等なんてことばも砂上の楼閣みたいなものだ。強者と弱者がいることを容認しないことは出来ないが、だからといって、強者が弱者に対して居丈高であることはあってはならない。
お互いを尊重し、いつくしみあい、良いところを伸ばし合える、そういう人間関係が形成できればいいのに。
告発は目的ではない。反撃は、自分の方が優位に立とうとしてやっていることではない。傍観者的に、ハラスメントをした側を擁護するような立ち位置にいる人もまた弱者なのかもしれない。強者にへつらわず、それぞれの個を尊重できる、そういう人が増えていけばいいのに、と、小説を噛みしめながら思う。

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