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山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』(集英社)を読んで、ジェンダーとの新しい戦い方を知る

新聞記事の中でちょっと言及されていたのが気になって、山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』(集英社)を読んでみた。タイトルだけ見ると、出世作『人のセックスを笑うな』の柳の木の下のドジョウ、みたいな感じだが(編集者のセンスなのだろうか)、全然、全然、全然違った! 驚いた!

まず、この本の中では「女」「男」という単語を使わない。自分と同じ性、自分と違う性、という相対的な表現がとられていて、そのもどかしさがこの作品集の主題とも言える。

ジェンダーは後天的な性差をさす言葉だから、生まれついた身体的特徴による性差とは違うのだが、この本に収められた4つの作品のうち3つでは、自分の生まれ持った性に対するアンチテーゼ、自分が属さなかった性に対するアンチテーゼ、そして、両方ないまぜとなった感情がひたすら描かれる。そのアプローチがSF的で面白い。

「父乳の夢」:投薬することで父乳が出るようになり、育児休暇をとって父乳育児をする父親。卒乳を迎え、夫婦の対話の中で、出産も、授乳も、それが育児のメインではなく、すべての積み重ねが育児であり、その時間が家族を作ると気づく。結論はえらく普通だが、その間にジェンダーの転換がはさまると、気づきの過程の対話者の性別はどうとでもなりうる、という可能性が感じられるようになる。

「笑顔と筋肉ロボット」:生まれ持った性の特性としてのかよわさを当たり前のものとして生きてきた人と、力仕事を代わって引き受けるのが当然と思って生きてきた人。ひ弱さをアシストする道具を導入することで、自分でもなんでも出来ることに気づく人、頼られないことで自分のレーゾンデートルがなくなる不安にかられる人。必要とされる、の定義について再度考える機会を持つことは夫婦の新しい在り方を考えるきっかけになる。

「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」:感情の起伏なくフラットに生きることが、ものわかりよく、誰からも嫌われない処世術だと思って生きてきた太郎の口癖は「わかるよ」。あなたの言いたいことはわかるよ、と言っている太郎の言動は、読者には全くわかってないようにしか見えない。配偶者のPMS(月経前症候群)によるイライラや憂鬱を「わかるよ」と共感すると、配偶者から、PMS用のサーフボードに乗ればPMSが始まるのだと教えられる。そのサーフボードはエベレストに刺さっていて、選ばれし者が掴むとするっと抜けるのだという(エクスカリバーか!)。コロナ禍を抜けた数年後、太郎は本当にエベレストに行って、サーフボードを見つけ、それに乗ってみる。すると本当にPMSが来て、生理が始まる。
この小説で一番いいのは生理が来た太郎が、配偶者に「わかっていなくてごめん」と謝ったあとのシーンだ。配偶者は「理解っていらない、理解は捨てよう」と言う。わからなくていいのか、と問う太郎に配偶者は、わからなくていい、分類もいらない。人間を二種類に分けるのも、したい人がするのは自由だが自分にはいらない、と言い切る。太郎が「わかるってのは分けるってこと」と言うと配偶者は「わからなくていいんだって」と言う。太郎全否定で大団円!

どの小説も、夫婦がそれまでの性的な分担を通り抜ける過程が、突拍子もないやり方で描かれている。ジェンダーフリーの目覚め?

説明していて、何も説明できていない気がしてきてもどかしいが、純文学とSFの異種コラボレーションで、小説の新しい可能性を見せて貰った気分。

最後の「顔が財布」という小説だけはジェンダーとは直接関係ないが、ルッキズムへの抵抗、というか、美醜と関係ない場所で顔は自分を自分たらしめるものであると思うに至る過程を、今日的なアプローチできびきび描いたショートショート。

どの小説も、作者(いや、Wikipedia によると、山崎ナオコーラは性別非公表となっているな)とわたしの属する性の人が、深く考えることでジェンダーを乗り越える、力強い小説だった。それはまた、違う性別の人にも新たな視点と新たな勇気を与える道筋なのだと思う。
また、この小説はコロナ禍の中で書かれ、発表された小説であるというのも興味深い。この時代を乗り切る中で文学がどう変わっていくかという試金石のような小説でもあった。



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