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スポ根なんて単語を使うのはスポーツを知らない人ばっかりだ

自分が知らない・想像もできない・想像もつかないような世界、がこの世にはあるっていうことを、理解できなくてもいいけど、想像できなくてもいいけど、知っておいてほしい。
でも自分に見たことも聞いたこともない世界があるってことを認めることさえできない感性なんかがあるとしたら、そういう感性のことも私は認めなくてはいけない。

認知行動療法が自分をとりまく全ての世界に適応されてしまって理屈っぽさに拍車がかかる。

セッションを観た話です。
セッションといっても稲井大輝が渋谷でナンパするときに言う「ぼくとこれからセッションしませんか」とは別で、2015年にアカデミー賞やらなんやらでハイパー話題になっていた映画の話です。

この映画を観たのは今回で3回目でした。
1度目はぼんやりとニーマンやニコル、パパあたりに感情移入しつつ、こりゃすごい映画だな〜くらいに思っただけでした。それでもあれはすごかったとなんとなく脳が記憶していて、随分と時間が経ってから2回目に観たときは完全にニーマンの視点で震えながら泣いていました。
3回目の今日は、途中までニーマン目線で観ていたけれど、途中からフレッチャーに肩入れしている自分がいました。

指導って難しいなあ。
フレッチャーはほんとうにほんとうに、全部本心で。ニーマンに優れたドラマーになってほしかった。ただ、正しい奮いたたせ方を知らなかったし、わからなかったし、誰も理解してくれないと思い込んでいたからどんどん孤高の存在になって、どんどんどんどん行き過ぎた指導をした。
だからってそれが許されるわけではないけれど、彼は彼でそうするしかなかった。ニーマンの才能を潰すか開花させるか、紙一重のやり方しか彼は持っていなかったから、彼にとってあれは最高の指導をしたつもりだった。

ニーマンはニーマンで、家庭にもなんだか居場所がなくなり、学校にも馴染めず、ドラムのことを考えるばっかりにガールフレンドをぞんざいに扱って、どんどん自分にはドラムしかない、と考えるようになる。
自分を認めてくれたフレッチャーについていけば、フレッチャーにさえ認めてもらえれば。きっとそういう思いが、その思いだけが彼の原動力だったんじゃないかな。
認めてもらいたくて仕方がなくて、おかしいと思ってもどこかで慕ってしまって。
反骨精神と崇められたり、あるいは揶揄されるのかもしれないけれど、それだけではなく、どこか狂気のようなものを私は感じる。一種の洗脳に近い何かを。

私の話をすると、うちのクラブの監督も精神的にダメージを与えるような言葉をよく発した。
毎日毎日、練習がきつかったのはもちろん、イガイガした言葉を投げつけられるのもしんどかった。
それでも。
それでも、私も、私の周りの子たちも、上の世代のお姉さんたちも、みんなみんな、あの先生に許されたくて、認められたくてたまらない。
これ以上ないほどの喧嘩別れ、以上にひどい辞め方をした人だって、何年かすれば先生に会いに行って話をして、泣く。
いいとかわるいとかではなく、みんな、ほとんどみんな、先生とまた話したいって言う。

それをスポ根とか体育会系なんて言葉で片付けられると、悲しみや虚しさに似た、寂しい怒りみたいなものが湧いてくる。
そもそも、根性論だけのストーリーではないし、根性論に焦点を当てるとしても、スポーツだけが根性の世界なわけでもないし、体育会がぜんぶ根性で成り立っているわけでもない。

スポ根なるものが仮に存在するとして、その真の意味は世にはびこるそれとは似て非なるものだと思う。



今日は午前中に蕁麻疹を出してしまったのではやめに寝ようと思います。
写真はワンランク上の大戸屋です。
おやすみなさい。



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