小さき者へ/重松清(その8)(ラスト)


三月行進曲。

正直に言うと、私はこの章だけは、あまり良さがわからないというか、染みてこない。
それは私が女で、女として生きてきて、女として生きることを甘受しているから、なのかもしれない。
とかなんとか言って、読み返してみたらがっつり刺されてしまった。

主人公は少年野球の監督を務める。
プライベートでは一人娘の父。
息子がいたら、とか、息子には、とか。そんな想像とか幻想とか憧れとか。
単に理想(というか現状とは別に存在していた可能性)と現実を比較してしまうことを思い悩んでいるんだと思っていたけれど、そうでもないのかもしれないと、今日初めて思った。

でも、結局、それらは全てないものねだりだと、少年野球チームのヤスヒロの父親と話して、主人公は気がつく。
主人公が娘を遠くに感じる気持ちをヤスヒロの父親にはわからないだろう、僕も男の子に憧れるだけで、ほんとうには男の子の父親の気持ちがわからないんだし。
って。

そりゃあまあ、経験したことのない事柄って、想像したり見聞きしたりするしかなくて、そういうのってやっぱり自分自身の実体験じゃない分、どこか遠いし、理想化しがちだし。
ていうか男の子はどうとか女の子だからなんとかとか、そんなの一括りに出来ないよなあとも。まあ傾向としてある程度は当てはまることもあるんだろうけど。

ただ、今回読み返して、ひとつ思ったのは、どうして私はこの人の本が好きなんだろう、って。
439ページ目(新潮文庫版)で、主人公はヤスヒロの父親をかばう。ヤスヒロに手を上げる父親を、かばう。
厳しいし、手も上げるけど、ヤスヒロのことをすごくかわいがっている。と。

おかしいよなあって。
かわいがってるのに手を上げるの?って最初にきた。でも、かわいがるのと殴るのがイコールな人もおそらくいて、それは愛情が歪んでるとかそういうことではなく、かわいがり方(もとい、かわいがられ方)を知らなかったり、愛があるから殴る、殴っていい、とかそういう風に暴力を正当化する人たちなんだろうなあって。
確かに無関心だったら殴りもしないんだろうけれど、殴っても殴られてもいい方向に進むことってないと思うんだよなあ。対親ならなおさら。習い事の先生とかならまだわからなくも……まあ嫌だけど。

そんなこんなで、どうしてこんなにも「男」や「父親」、「手を上げてしまう弱い父親」、ひいては「暴力」を正当化するような人の文章が好きなのかわからなくなった。
でも、「海まで」とかを読み返すと描写がとっても上手で、言葉が流れていて、綺麗だなって思った。いや、綺麗というよりは馴染み深いの方が近いかな。
いずれにせよ、心地よい言葉運びだった。
だから、きっと、私は重松清さんの小説が好きというよりは重松清さんの言葉の選び方、措辞なんかが好きってことで、考え方はそんなに好きじゃないのかもなあとか。
でも自分のこともまだまだわからないので、まだまだ結論は保留です。
ただ、やっぱり、重松さんは「男性」が許されるための文をたくさん書いているような気がする。

私も可穂かもなあって。親が勝手に期待して、理想の娘を思い描いて、それに私は追いつこう追い越そう……って、でも無理だった。
中途半端に勉強もスポーツも芸術も、ほんとうに中途半端によく出来たから、そりゃ親も期待してしまって仕方がなかったかなあとは思う。ただ、そこで期待に応えないと生きている価値がないなんて思ってしまうほどには自己肯定感がなかった。小学校に入る前から。

華恵さんのあとがきの最後にあるようなことを、私も、願います。






人生は難しいですね。
お昼ご飯に親子丼を食べた後にりんごを丸かじりしたら満腹になりすぎました。反省です。
午後は職場で小3女子に「一緒に遊べなくなってごめんね」と謝られました。私は小学生に遊んでもらっているらしいです。
おやすみなさい。

この記事が参加している募集

読書感想文

お読みくださりありがとうございます。とても嬉しいです。 いただいたサポートがじゅうぶん貯まったら日本に帰りたいです。