vol21 不自由な自由
自由はとても不自由だ。
何をしてもいいというのは、何かをしたい気持ちを生まない。
義務のようにやらされる事がないと、そこから外れたやりたい事も生まれてこない。
「海のはじまり」というドラマを見ている人はいるだろうか。
お盆休みで実家に帰省した際、7話?を見た時に感じた事を書いていく。
人の死や情緒が絡むドラマを見ると、いろいろな世界を脳内で想像してしまう。今回の場合で言うと、僕の妻が子供を産んだ後に亡くなり、僕が一人で子供を育てる、そんな世界を想像していた。
つまり、南雲水季さんの立場に自分を重ね合わせた。(すごく簡単に言うと、南雲水季さんは彼に黙ったまま出産する。そして1人で子育てをしている女性)
そもそも、なぜ僕は南雲水季さんの立場に自分を置いたのだろうか。他にも選択肢はあった。男性役もいるし、かっこよく、良い男として振舞える立場もあった。それでも、僕は一人で子供を育てる運命を背負った自分を想像していた。
おそらく僕の欲望というか、想いが関わっているように思う。なぜなら、その世界にいる僕は、どこか悪くないというか、満たされた気分を感じていたから。一人で子育てをしたいという話ではない。僕は一人で子育てできるような人間ではないことはよく知っている。ただ何となく、運命じみた、避けることのできない何かを背負って生きる姿に憧れがある、そんな気がする。
僕は自由だ。働いても、働かなくても大丈夫。好きな時にご飯を食べられるし、何か「しなきゃいけない」というものは今の生活にはほとんどない。
でも、どこか満たされていない。そんな「しなきゃいけない」ことがない生活に不足感を覚えている。これは人間誰しもが持っている情緒かもしれない。自分の役割が欲しい。「あなたにしかできないことだよ」という役割を分かりやすく提示されたい。生きる意味、生きる目的を持てる対象があれば、どれだけ生きやすいか。逆にそれがない現在はどこか生きづらい。何をしてもいいがゆえに、何をしなくてもいい。だから、何もしない選択を取る。しないといけない何かがあるから、それを差し置いてでも、やりたいことが出てくる。自分を強制する存在がないと、そこからはみ出た欲求は生まれてこない。
自由はとても不自由に感じる。ない物ねだりだと分かっているが、このまま自由を享受し続けると、自由に苦しめられることになる。どこか十字架を背負いたい、十字架を背負い、自分が進む道の選択肢を減らしたい。減らすことができれば、諦めて、その道しか見ずに生きられる。
今は色々な道が見えている。四方八方、選択可能な道に囲まれている。どれを選ぶかは自分次第、だからこそ自分の欲求に向き合うことになる。自分の欲求に向き合うと必ず思い知らされる。自分の理想と欲求が釣り合わないことを。望むことと、できることに乖離が生まれる。自分の情緒はこうあって欲しいと願うが、欲求はそうはいかない。情緒的には冷静にふるまいたいが、つい感情的になってしまう、そんな感覚を内省では感じる。
こういった乖離は誰にでもあるだろう。人間は未来に可能性を見出しながら生きている。そして、その可能性と現実のギャップに生まれるのが不安である。将来、自分は幸せになれるかもしれないと期待するからこそ、可能性を感じられるからこそ、幸せじゃない現在に不安や不満を感じる。
そもそも、未来に絶望しか待っていないと知っている人間は不安なんて感じない。期待するから、不安が生まれるのだ。
自由というのは、この期待を最大限に引き出す行為だろう。自由には無限大の可能性がある。それにより不安が増大する。だから、その可能性を減退させたい欲求が生まれ、「海のはじまり」では、特定の運命を背負い、過度な期待はせず、訪れる人生に対し紳士に向き合う自分を求めたのかもしれない。
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