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勉強のテクニック①日本史ver~丸暗記からの脱却(初級編)

高校生に日本史の学習について質問をすると、10年〜15年前に比較すると、拒否反応の確率は少し減った気がします。いわゆる歴女という言葉が流行ったり、歴史的なモノをモチーフにしたアニメ、そしてゲームなどが流行したり、多くの場面で以前より見かける機会が増えたことはその要因かと思います。
どんなことがきっかけでもそれはとても良いこと!

でも日本史って結構嫌われるのも事実…
「徳川って何人いるんですか?」
「北条って…?藤原は、あの時代の藤原とこの時代の藤原は…?」
「内閣総理大臣多すぎません?」
「法律の名前多すぎます!」
「墾田永年私財法…漢字多くないですか?」
「土地制度とか、近現代の税関係難しすぎます!」
この断末魔のような発言を何人から聞いたことか(笑)

ただ、これは正直、私の中では”正しく”日本史を学んでいないというか、本質の部分をつかんでいないまま「覚えること」に力を置きすぎた結果が、この悩みにつながるものなんだと思います。

個人的には、日本史の学習法というよりも、全ての科目に通ずる「学び方」ということを教育課程の中で伝えていくことが本当に大事なことなんだとは思います。キーワードは「”何を”学ぶか」ということ。

日本史は、徳川15代を全て覚えていることが大事なのではないのです。
その時に、なぜそれが発生したのか、どうしてそういう事態になったのか、人間が作る人間の歴史には、そこには「意図」「感情」「考え」そして「時流」「環境要因」が必ずあるはずです。つまり
すべての物事には「原因⇒結果」があるということ!

では今回は初級編から!

縄文土器と弥生土器の違い

おそらく小学校高学年あたりで学習する内容ではないかと思いますが、日本史の序盤(小学校だと社会科の歴史ですよね)で登場する縄文時代・弥生時代。

この土器について、よくある説明では二項対立の比較をしながら解説をされるケースが散見されるとよく生徒から話を聞きました。
それが以下内容。

<縄文土器・弥生土器の特徴>
●縄文土器
低温で作られて、厚手壊れやすい・縄目の模様がついている
●弥生土器
高温で作られて、薄手壊れにくい・広い用途で使われる

こんなところがよく比較形式で問われる部分でしょうか。
これを単純に「じゃあこの特徴の違いを覚えておいてくださいね」で終わらせてしまうだけでは単なる丸暗記。
※しかし私独自の調査では、本当にこの説明だけで終わらせていることが多いらしく、高校生の子どもたちに聞いた時、衝撃を受けたこと…未だに記憶に鮮明に残っています。

この内容を理解する⇒説明できるの実践レベルになるためには、単にこれの違いを言えることが大事なのではなく、その背景を知ることだけなのです。
今回のポイントは、簡略化して伝えると
「文化のレベルが上がった」
これが背景知識にあるかだけなのです。

土器を作るときの温度についても「文化のレベルが上がれば」
”低温”から”高温”になる。
※野焼きや窯という解説もしたいところですが、少し省きます。
土をペタペタ張り付ける作り方から、ろくろを使えるようになるという「文化のレベルが上がれば」
”厚手で壊れやすいもの”から”薄手で壊れにくいもの”になる

そして精霊信仰(アニミズム)という考え方(文化背景)や、弥生時代の水稲耕作の時代・身分制度の発生などいろいろな視点を入れると、そもそもの用途の違いも見えてくるのですが、ここから先は少し初級編を超えるので、まず第一に抑えておきたいところはここまで。

でも単純に「文化レベルが上がる」という時代の流れにおける当然の背景知識だけで、これが丸暗記である必要がなくなるのです。
この話をしただけで、「あ、そういうことか」という気づきがあれば、十分。これが日本史の学ぶ上で大事な「原因⇒結果」なのです。


蔓延する丸暗記文化

日本史には人間のドラマがたくさん詰まっています。
ただ、一つ間違えると「思想教育」にもつながってしまう科目でもあります。事実を単純な事実として伝える客観性も必要なのですが、その時の時代を鳥瞰して、この立場ならばこうするか?この立場ならばこう捉えるかというように違いを理解したうえで、学んでいくことが、本質的な歴史を学ぶということであると考えます。

ただその背景にある流れを完全に無視して、思想教育にならないように、ただ事実だけを伝えること。これもリスクを避けるためには必要だったのかもしれませんが、これでは日本史を学ぶ意味があるとは言えません。

なぜ土器は出現したのか
なぜ安土桃山時代には、城郭建築が流行ったのか
なぜ士農工商という身分制度が生まれたのか

その時代の人たちが何を考え、何を大事として、どう生きたのか。
そして現代の我々がそこから何を学ぶことが出来るのか。

正解のない日本史、解釈の違う日本史、そしてそれぞれの歴史観が異なる日本史…これも多様性を受け入れるこれからの時代の中で必要な学びだと信じています。

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