「アリの思考とキリギリスの思考」の感想

この前に書いた
アリの思考タイプ と キリギリスの思考タイプ
の続きのような話です。

この前は、
「どのような解決策が提示されるか期待したいと思います」
と書き終わりましたが、連載はすでに終わっており、
最後まで読んだ感想を、要点の抽出と共に行いたいと思います。


『アリの思考 vs.キリギリスの思考
「問題解決」から「問題発見」に跳ぶための3つの視点』

既存の枠や常識にとらわれることなく、革新的な事業や商品を生み出すことができる発想、思考がこれまで以上に求められている。そのような思考は、これまでそれが問題であるとは認識されていなかった「未知の問題を発見する」ことから始まる。
この「問題発見」のための考え方を「キリギリスの思考」と名づける。その対極に位置するのが、「与えられた問題を解決する」=「問題解決」のための「アリの思考」だ。
広義の問題解決は、大きく上流の「問題発見」と下流の「狭義の問題解決」に分けられる。
この連載では以降「問題解決」という場合には、この「狭義の問題解決」を指すものとする。

これを書いた、細谷 功 氏は、
革新的な事業や商品を生み出すことができる発想、
これまでそれが問題であるとは認識されていなかった「未知の問題を発見する」こと。
こういった「問題発見」のための考え方を「キリギリスの思考」と表現し、
「与えられた問題を解決する」「狭義の問題解決」を「アリの思考」と表現しています。

また、
顧客のニーズ(Why)を新たに発見して、新しい問題(What)を定義するのが「問題発見」であり、「キリギリスの思考」、
問題(What)が与えられた後に、それを解決する(How)というのが、「与えられた問題を解く」「アリの思考」だそうです。

システム開発・導入を考えてみる。顧客から「こういうシステムを作りたい」という要望(What)があった後に、それを詳細仕様に落として具現化する(How)のが問題解決型の業務で、経営課題や真のニーズ(Why)から「そもそもこういうシステムが必要だ」(What)と逆提案するのが問題発見型の業務と言える。

とも言っています。


これまでの日本企業の典型的勝ちパターンは、「すでに決められた枠の中を最適化する」ことではなかっただろうか?
ある程度製品の大枠が決まってからそれを高性能化し、低コスト、軽量小型化することは自動車や電気製品で見られた日本製品のひとつの勝ちパターンだったと言える。
ところが社会や市場の成熟化、新興国の台頭、製品のコモディティ化、ICT(情報通信技術)の発展などによって、「枠の中を最適化する」という勝ちパターン以外のことが求められる場面が多くなっている。
ところがここでの最大の問題は、従来の問題解決に求められていたスキルやものの考え方(アリの思考)と、上流の問題発見のためのスキルや考え方(キリギリスの思考)は、真逆と言えるぐらいに異なっていることである。

ここに、この前書いた文章を感想として入れます。

「すでに決められた枠の中を最適化する」日本の「アリ型思考」ですが、
日本は、ほとんどの場合、その答えを自分で考えず、他からのコピーで済ませてきました。歴史的に見ても、昔は中国、近代は西欧から多くのものをコピーしてきました。
戦後日本は発展しましたが、昭和、平成、令和、と、その中で日本発の物って少ないですよね。
他から正解をコピーしてきて、○○道のような形にして、「すでに決められた枠の中を最適化する」ことが、細谷 功 氏の言う通り、日本企業の典型的勝ちパターンでした。

もう少し付け加えれば、それは最適化というより低価格であったり、とりあえずありったけの機能をつける全部盛り化(ラーメンでよく見るやつです)であったり、コストカットであったり、横並び(製品のモノマネや価格合わせ含む)であったりしたのではないか?なんてことまで考えてしまいます。

たしかに例えば「軽量化」というような方向性が決められた場合は、最適化に進んだのかも知れません。(この一行 2021/06/15追記)

この日本企業の「最適化」という典型的勝ちパターンの限界を細谷氏は指摘しています。
日本企業の得意な「枠の中を最適化する」ではなく、その上流において「枠を超える」スキルや考え方として「キリギリス型思考」を紹介しています。

そして、両者の違いを「3つの視点」で説明しているようです。

従来型の秀才が得意とする「アリの思考」から、これからのビジネスプロフェッショナルに求められる「キリギリスの思考」へとジャンプするためには、3つの視点において、物事を考える回路を転回するといい。
すなわち、「ストック」から「フロー」へ、「閉じた系」から「開いた系」へ、そして「2次元(固定次元)」から「3次元(可変次元)」への転回だ。


第二回『アリ型よりキリギリス型が成功する時代
アリの「ストック思考」からキリギリスの「フロー思考」へ』

連載2回目では、
「キリギリスの思考」へとジャンプするための、3つの視点
「ストック」から「フロー」へ、
「閉じた系」から「開いた系」へ、
「2次元(固定次元)」から「3次元(可変次元)」への転回の内、

「ストック」から「フロー」への説明がされています。

従来の延長ではない破壊的イノベーションを起こすためには、「ゼロベースで」考える必要があるからだ。「白紙で考える」に当たっては、これまで培ったストックとしての資産を、すべて忘れ去ることができるかどうかが重要なポイントとなる。
まず大きな要因として挙げられるのがICT(情報通信技術)の発展である。インターネットとクラウドによって、知識や情報とはネット上でいつでも検索可能な共有財産という色合いが強くなってきている。つまり、「ストックとしての知識」は個々の企業や個人が持つというよりも、共通のレポジトリーとしてのクラウドやインターネットが担うようになってきたからである。つまり個々の企業や個人にとって知識や情報は「貯める」から「使う」に変わってきているのである。

SNSも情報をストックからフローへと変えている動きのひとつである。「タイムライン」は情報をフローととらえている。「一度聞いた質問への答えは過去のアーカイブから探してくる」というのがストック的な発想だが、「それよりもう一度聞いたほうが早い」というのがフローとしてのタイムラインの発想と言える。

「それよりもう一度聞いたほうが早い」これは、やられるほうで嫌がる人はいるでしょうね。特にアリさんは。もしかしたらキリギリスさんですら。


変化があまりない環境では、「過去の延長線上」で考えることがよい結果を生むことが多いからストック型の発想が有利だが、変化が激しく過去の延長が通用しなくなった世界では、ストックとしての「過去の知識」の価値は相対的に下がってくる。
何かを持っている組織や人は必ず「今あるもの」から発想する。「今あるもの」を強みとして最大限に活用できる方策を考えるという点で理にかなっている。
ビジネスで言えば、今、業界内で一定の地位を築いている企業は当然「アリ型の思考」になり、(略)ブランドでも同様である。「評判や名声」を得ている組織や人はそれを守ろうという発想になってくる。
今の仕組みでうまくいっている人は、当然、その体制を維持しようと考えるから、いわゆる「エスタブリッシュメント(支配階級)」に属している企業も個人も基本的にはアリ型の思考になる。
たとえばひとりの個人の中でも自分が(良くも悪くも)「素人」である分野においてはキリギリス型の思考ができても、自分が専門家の領域であったり「守るものがある」領域であったりするとどうしても「アリ型思考」になってしまうということがいえる
環境変化が速い世界においては「知的資産の負債化」は不可避である。ある時代、領域の専門家は次の世代に行くときには逆に重荷になってしまう。あたかも「荷物が多い人」のほうが引っ越しが大変で「腰が重く」なってしまう構図と同じである。このようにして、「アリ型思考」の人は変化に抵抗を示す。それはまさに「ストック型思考」であるがゆえのことである。


「アリ型思考」のストック型と、
「キリギリス型思考」のフロー型の違いの説明は以下のようにされています。

ストック型は、つねに過去の知識や経験に依存した考え方で、
フロー型は、必要な知識や情報はその場で仕入れて新しい知識を生み出していく
アリは「持てる者の発想」として、あくまでも「今あるもの」から発想する。「今ある知識や経験」を重視し、つねに「前年実績」や「競合他社事例」を意識し、何事も「積み上げていくこと」が美徳であるから、つねに今までの延長で物事を考える

したがって、いわゆる「過去の成功体験から抜けられない」というのもアリ型の発想の弊害のひとつである。また知識以外でもアリはつねに「今あるもの」から発想する。今の自分の組織や今の業界のルールや常識、あるいは社会規範はつねに「ありき」で考えるのである。これらがアリにとっての「枠」となる。
キリギリスは、知的資産においても「宵越しの知識は持たない」という「江戸っ子気質」である。その場で必要な知識はその筋の専門家から調達し、そこで新しいものを生み出したら興味はまた次の領域に移る。

キリギリスはつねに「今ないもの」から発想し、「未知」の領域に目が向いている。知識を活用するにも、あくまでも「未知のものを生み出すため」という目標が明確である。
先述のとおり「その道の専門家」はアリ型の思考になりやすい。対するキリギリスは「素人」の発想である。

余計な感想となりますが、そういえば、『素人のように考え、玄人として実行する』(金出 武雄)という本がありましたね。つい、思い出してしまいました。


こうしてキリギリスの知的好奇心はつねに「新しい未知のもの」に向かっていく。キリギリスにとっては「できるとわかってしまったもの」はもはや興味の対象ではない。対してアリは「できるとわかっているもの」から実行していくことになる。

これまた蛇足となりますが、
オートバイの片山敬済氏の言葉に「秀才は着込み、天才は脱ぐ」というのがあります。
アリのストック型の最高な形が秀才で、
キリギリスのフロー型の最高な形が天才なのかも知れません(と書きながら、あまり自信は無いという・・)。


第三回『「アリ型」日本人は、変化に対応できない
アリの「閉じた系」からキリギリスの「開いた系」へ』

連載3回目では、
「キリギリスの思考」へとジャンプするための、3つの視点
「ストック」から「フロー」へ、
「閉じた系」から「開いた系」へ、
「2次元(固定次元)」から「3次元(可変次元)」への転回の内、

「閉じた系」から「開いた系」への説明がされています。


「閉じた系」と「開いた系」の違いをアリとキリギリスのイメージに関連づけると、「巣を中心に活動するアリ」と「巣を持たないキリギリス」との違いと言える。問題解決で言えば、「枠の中で考える」のが「閉じた系」の思考であり、枠を取っ払って考えるのが「開いた系」の思考ということになる。
ひとつ目は「常識」と「非常識」という区別である。アリは自らの共有する価値観に合致する事象を「常識」として肯定し、その外側の事象を「非常識」として否定的に判断する。これに対してキリギリスはすべての事象を連続的な変化としてとらえるために常識と非常識を明確に区別して考えることはしない。

たとえば自分が理解できない新しい世代の行動にどう反応するか。アリはそれを「非常識だ」と判断して、その行動を改めさせて「常識の世界の内側」に持って来ようとするか、あるいはその行動を否定して拒絶するかの二者択一の判断をする。一方、キリギリスは「そういう傾向の人が増えてきている」という事象の変化を淡々ととらえて否定も肯定もしない。キリギリスの辞書には「常識」も「非常識」もないのである。

他人の行動に対し、「こういう常識は必要だ」と反応する人は多いです。
「事象の変化を淡々ととらえて否定も肯定もしない」のは『傍観者』であるエニアグラムのタイプ5が思い浮かびます。
ちなみに、キリギリス的な『冒険者』タイプ7も、その統合の方向はタイプ5となります。
これが分裂の方向の『べき』タイプ1に行くと文句が多くなります。


実は「線を引く」のは問題の定義そのもので、(略)
「新しい会社を作る」ときも同様である。会社という組織を定義し、(略)
規則やルールも(略)
(中略)
ところがここに根本的なジレンマがある。「問題を解くために引いた線」がまさに「次の問題を引き起こす」のである。それは先に述べたように、ある目的のために概念上引いた線が固定化してしまって、実態の変化と乖離していくことがあるからである。
一般に「閉じた系」である閉鎖的な組織は、外乱が少なく「一丸となった」行動も取りやすいために問題解決の手段としては優れていて、急成長をもたらすことも多い。しかし、これがある時点を超えると、むしろ「新しい変化に対応ができない」という形で急速に「時代遅れ」になっていくのである。

このように、あくまでも便宜上定義したはずの「線」に縛られて、顧客ニーズの変化や技術的なイノベーションによってもたらされる変化との乖離が大きくなっていく。ここに「次の新たな問題」が発生するのである。まさに「線引きのジレンマ」と言える。

「線を固定化して考える」アリにとっては、この矛盾を見つけることは非常に難しい。ところが線を引かずに物事を観察するキリギリスはこの矛盾に気づき、「線を引き直す」ことの必要性を発見できるのだ。
良くも悪くも「枠が与えられなければ動かない」のがアリである。ひとたび問題が与えられれば、それを全力で解決にかかるのがアリであり、(略)与えられた問題をいちいち疑うことは、問題を解決することを遅らせる。だから、アリはとにかく置かれた環境でベストを尽くすことに集中するのである。

これに対してキリギリスは、枠(巣)があろうがなかろうが気にせずに動き回る。与えられた環境でうまくいかないと考えれば、「環境そのものを変えてしまおう」と考えるのがキリギリスである。だから、今、自分がいる業界や会社がおかしいと思えば、すぐにそこから出ることを考えて別の業界や会社を探し始める。アリにとってキリギリスが「我慢ならない存在」と映るのはそういう理由による。
私たち日本人の思考回路は、どちらかと言えば、「ムラ社会」という言葉に代表され、また島国という閉鎖的になりがちな物理的な環境からも、アリ型の傾向が強いことは明らかであろう。
これらは「線を引き直す」発想が求められるものである。こうした観点からも、これまで以上に従来は日本人が相対的に苦手としてきた「キリギリスの思考」が重要になってきていると言えるだろう。

繰り返しになりますが、前の感想でも書いた通り、日本は、ほとんどの場合、その答えを自分で考えず、他からのコピーで済ませてきました。歴史的に見ても、昔は中国、近代は西欧から多くのものをコピーしてきました。
そもそも日本人は自分で線を引いていないのですよ。決断や判断が苦手だと言ってもいい。こういったことは、新型コロナの感染が続いている日本において、どういう状況ならオリンピックをストップさせるか?の線引きがされていなのを見れば分かると思います(選手が途中で感染した場合の順位などの対応も後手に回っているようです)。

ですから

これらは「線を引き直す」発想が求められるものである。

と言われても・・・。

これまで以上に従来は日本人が相対的に苦手としてきた「キリギリスの思考」が重要になってきていると言えるだろう。

には同意するのですが・・・。


日本は、「線を固定化して考える」アリ型思考のその固定化さえ、自分ではせず、外から正解をコピーしてきたわけです。
だから「線を引き直す」発想が必要と簡単に言われても、それは難しいと思います。

※ 『タイプ6は心配事・不安に どう反応しているか、 精神レベルにより どう変化していくか
タイプ6国民、日本人の思考停止


第四回『キリギリスは思考の自由度が高い
「固定次元」のアリから「可変次元」のキリギリスへ』

https://toyokeizai.net/articles/-/38781

連載4回目では、
「キリギリスの思考」へとジャンプするための、3つの視点
「ストック」から「フロー」へ、
「閉じた系」から「開いた系」へ、
「2次元(固定次元)」から「3次元(可変次元)」への転回の内、

「2次元(固定次元)」から「3次元(可変次元)」への説明がされています。

直観的にわかりづらいかもしれないが、動きが「前後左右のみ」の2次元に拘束されたアリと、必要に応じて「跳ぶ」という選択肢を持ち、「上下」というもうひとつの次元を持った「3次元」のキリギリスとの比較で考えてもらうとわかりやすいだろう。
イメージをつかむために、次のマッチ棒パズルの問題を考えてみてほしい。

【マッチ棒6本を使って正三角形を4つ作るにはどうすればよいか?】
つまり、次元をひとつ追加することで行動の自由度が増し、2次元ではできなかったことが可能になる。前回述べた「閉じた系」のアリが「開いた系」のキリギリスになるためには、「次元を上げる」ことが必要ということだ。

アインシュタインは「われわれの直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じレベルの考えで解決することはできない」という言葉を残しているが、まさにこのイメージである。
「次元」とは、「思考の自由度」のことであり、考えるための「変数」のこととも言える。「変数(の種類)を固定して考える」アリと「変数を増減(ときに再定義)させて考える」キリギリスとの考え方の違い

変数の再定義ですか・・・、
居眠りを注意された『キリギリス』タイプ7が「でも、でも…、これで、この後の仕事がはかどれば、それは良いことですよね?」と言った(言い返した)話を思い出します。ある意味、変数の再定義ですよね。


他社製品に「あって当たり前」の機能をあえてなくしてしまうという意味で「変数を減らす」というオプションも、キリギリスにはありうる(古くは「ウォークマン」がこの典型的なパターンであり、近年では新興国向け製品やサービスの開発にもよく取られる手法である)。
キリギリスが究極的にやりたいのは、あまりに変数が他社の製品と懸け離れているために、「比較表を作ることに意味がない」あるいは「比較表が原型をとどめない」という状態にもっていくことである。たとえばタブレットPCが誕生したときに、ノートPCとの「比較表」を作ることに意味を感じる人がどれだけいただろうか。
要するに、同じ土俵で「いかにうまく戦うか」を考えるのがアリで、完全に土俵を変えてしまって「いかに戦わないか」を考えるのがキリギリスと言える。
これらは、イノベーションのレベルの違いで言うと、アリのイノベーションが連続的な漸進的(インクリメンタル)イノベーションと呼ばれ、キリギリスのイノベーションが不連続な破壊的イノベーションと呼ばれる。

「ウォークマン」は、始めは社内で否定的に見られていたという話があったような。
他にも たとえばiPhoneが日本にやってきたときも、専門家の多くが否定的なコメントをしていたような。
こういうのは、タイミングもあると思うので、どこで何がヒットするかなんていうのは運の要素も強いと思われます(タピオカの後は何が来るか?美味しいものは数あれど次にどれがヒットするか?は分からない。だからステマで流れを作ろうとしたり・・・以下略)。
安心・安全・安定が大好きなタイプ6日本の企業や社会が、どれだけ「失敗」や「投機(投資では無く)」を許容できるかが鍵になると思われます。ちょっと失敗すれば、たちまち減点思考で批判の嵐ですから。


それでは「固定次元」のアリと「可変次元」のキリギリスとでは、どのような思考回路の違いがあるのだろうか?
一言で表現すれば、それは「上位概念」で考えられるかどうかの違いである。
(略)
ここでは3つの関係で上位概念—下位概念の関係を表す。
目的—手段の関係
全体—部分の関係
抽象—具体の関係である。
目的—手段の関係を例にとって説明しよう。問題解決重視のアリにとって重要なのは、手段である。なぜならアリには現実と実行がすべてであるからだ。つねに現実に「目に見える」形で存在するのは手段だからである。「目的」という、目に見えない将来のものに気をとられるのは「時間の無駄」である。とにかく、目の前の手段を着実に実行するのがアリのミッションである
これに対して、キリギリスは目的のためには手段は選ばない。ある目的を中心に考えたとき、そのための手段との関係というのは、下図に示すように、「1対N」の関係になっている。だから、目的という上位概念で考えることによって、特定の手段という「壁の中の世界」だけにとどまらずに、大きな視点で当該目的を達成するための手段を選べるようになるのである。
「変数が固定されている」アリは、問題解決がうまくいかなかったときにそれを他者や環境の責任にする、つまり「他責」かつ被害者意識になりやすい。
(略)
またアリはむやみに「自由度を増やされる」ことを嫌う。変数が増えれば、それだけ問題が複雑になって解決するのも大変になるからである。ここでキリギリスとの対立が起こる。

最後の「他責」や「自由度を増やされることを嫌う」は日本の国民性であるタイプ6の態度そのものです。


ただ、

安心・安全・安定が好きな日本人向けの文章なので、あたかも『キリギリス型思考』をすれば失敗しないように受け取れる話は不誠実だと感じました。

未知や混沌に対峙するとき、それは、確率的な話となります。正解は分からず、状況は揺蕩(たゆた)っている(ゆらゆらと揺れ動いていて定まっていない)ものです。

ジェームズ・ダイソン(掃除機の人)が「なぜ動かない?なぜ失敗をしない?」と言っていたような記憶があります。安心・安全・安定を好み失敗を恐れる日本人だけど、「新しいことをするには失敗は付きもの」だということを、まず理解させる必要があるのではないでしょうか?
たしかに今回の話とはズレる指摘になるかも知れませんが、ここまで読んできて「失敗の許容」が無いのが気になりました。

第五回(最終回)『アリの巣でキリギリスを殺してはならない
キリギリスをうまく跳ばせる方法』

https://toyokeizai.net/articles/-/39314

アリとキリギリスが「同居」したら、何が起きるのだろうか? 「アリ」と「キリギリス」が「同じ土俵」で争ったら、ほぼ確実にアリ型の人間のほうが勝利するのである。
つまり、組織の中でこのような「2つの異なる人種」が共に活動し、意思決定に際して主張が対立した場合、たいていは、アリの主張が通るのである。
(略)
結局、集団での意思決定は「わかりやすいほうに流れる」しかないのである。
組織というものは、こうして「わかりやすいほうに」流れていく。そして、この流れは基本的に不可逆的で、簡単には後戻りできない。「跳び道具」を封印された状態ではキリギリスは十分な力を発揮できなくなって、あとは死んで行くしかない。したがって、ひとつの組織の中では不可逆的にアリの比率が高くなっていくのである。
破壊的イノベーションを起こすためのきっかけとなる、新たな問題の発見の役割を担えるのはキリギリスだけだ。しかし、アリとキリギリスが「同居」した状態では、キリギリスが新しい問題を発見してそれを問題として再定義し、具体化していくことは非常に困難であるという皮肉なことになる。

組織におけるアリの比率が高くなればなるほど、イノベーションの必要性は高まってくるのに、そうなればなるほどキリギリスの居場所はなくなって、「跳べなくなる」という根本的なジレンマがここに存在しているのである。

よく分かっていらっしゃる。

「跳べなくなる」で思い出したことを一つ書かせてください。
これでサッカーの話を思い出しました。

『日本サッカーが世界で勝てない本当の理由』岡田康宏 マイコミ新書 より

なぜ日本人はシュートを打たないのか

 なぜ日本人はシュートを打たないのか。それは社会的、教育的な問題が大きいといわれています。日本サッカー協会の犬飼基昭会長は、2008年7月17日付の「スポーツ報知」で次のように語っています。

 「メキシコの育成で有名なコーチが、中学生になったばかりのU-13(13歳以下)日本代表を見た。『日本にはこんな才能が多いのか。半分はプロになれる。メキシコに連れて帰りたい』と驚いていた。だが、U-14を見ると『何、これ?』とがくぜん。

コーチの手が入ると、当たり障りのないプレーをするようになる。横パスで敵に取られないようにする。シュートを打って失敗するとバツ。横パスならバツはつかない。日本の減点主義社会の延長線上にサッカーもある」
 さらに犬飼会長は、このように続けます。
 「何でストライカーが育たないんですか、とよく聞かれるが、日本社会の象徴、と答えるしかない。それは意識の中に絶対ある。エリア内でも横にフリーな選手がいればパスを出してしまう。シュートミスするリスクを自分の中で避けている。だから、小さいころからメンタル面を変える。そうしないと本当の意味でのストライカーやディシジョンメーカーは育たない。世界でもまれるにはスポーツではサッカーが一番。経済がボーダレスになった現在、本当の意味で戦える日本人は少なかった。最高経営責任者には外国人が多い。無難に泳いでいれば役員になれるのが従来の日本社会。サッカー界が率先して、雰囲気を変えなければ人材は育たない。メキシコのコーチの言うように日本人には能力がある。だが、減点主義社会で育ったコーチが型にはめると若手の芽を摘む」

その文化の中で、本来の持ち味が殺されることはあるということです。

話を、アリ型思考・キリギリス型思考に戻して引用を続けます。

破壊的イノベーションを起こすのに必要なのは、このようなキリギリス型の人材に最高のパフォーマンスを発揮させることである。それはアリも理解しているのだが、実際にアリとキリギリスが「同居」すれば、意思決定の場面では必ず上記のような対立構造が生まれ、アリの論理が勝つ。キリギリスが力を発揮することは、構造的に無理があるのである。

そもそも「閉じた系」を前提とするアリと「開いた系」を前提とするキリギリスが、組織という「閉じた系」で同居すること自体が自己矛盾である。つねに「巣の論理」で動くアリに対して、巣にとってそれがよいかどうかよりもより「上位の目的」で考えて、巣の利害とは関係なく動くキリギリスの思考回路は、いつまでたっても平行線のままになるだろう。
併せて、「ストック型」で過去の知識と経験をすべての拠り所とするアリは、意思決定においても「前例と実績」を何よりも重視する。対してキリギリスは、蓄積した知識や経験を捨て去ることに何の抵抗もない。

「前例と実績」、これは未知や混沌を嫌うタイプ6日本文化そのものです。

それでは、環境変化に適応できなくなったアリがキリギリスを活用してイノベーションを起こすにはどうすればよいのだろうか?

まずはアリとキリギリスが中途半端に同居することが、最も好ましくないのは明らかであろう。意思決定も違えば、仕事に対する姿勢も前述のように180度異なるから、お互いはかみ合わない。

したがって、まずは、このような「思考回路の違い」を認識するところから始めなければならない。
アリは「過去の実績と論理」で明らかにうまくいくと考えるもののみ先に進めるべきと考える。キリギリスは「前例がないことをやるから、ある程度はやってみなければわからない」と考える。そんなアリとキリギリスが同じ土俵で議論しても、キリギリスの勝ち目は非常に少ない。

問題発見がキリギリスの役割である一方で、アリは「決められた枠の中をきっちりと仕上げる」という重要なミッションを担っている。ざっくりと言ってしまえば、世の中の9割以上はアリで成り立っていると言ってもよい。このようなアリはつねに「現実」を重視し、つねに具体的に考えることで実行を最重視する。「理想」を重視するキリギリスばかりの世の中になってしまっては収拾がつかなくなるのは、組織も社会も同じである。

ところが、アリばかりの社会や組織は必ず時間とともに劣化していく。なぜなら、「変数を固定して」「閉じた系で」考えて行動するアリは近視眼的になりがちで進歩がないからである。
さらに言えば、キリギリスを「組織という閉じた系」に住まわせること自体が自己矛盾なのである。破壊的イノベーションとは、そもそもその定義からして、従来の技術や事業と不連続なものである。そして、「持たざるもの」というチャレンジャーが、「持つもの」というエスタブリッシュメントに挑戦し、時には失敗し、時にはそれを置き換えていくという過程である。

したがってキリギリスは、本来、「アリの組織の外で」活動すべきものである。

アリにキリギリスのマネジメントはできないし、逆もまた真である。アリとキリギリスが混在する場合には、両者の特性をわかったうえで適材適所に使い分けるという、アリとキリギリスをひとつ上位の視点から見る「メタレベルの」マネジメントが必須である。それは従来組織とプロジェクト組織かもしれないし、親会社と子会社という関係かもしれない。いずれにしてもこれらを明確に区別して扱わないかぎり、キリギリスが跳べなくなるという過ちが繰り返されるだけになる。

「まあ、そうでしょう」という感想です。

「キリギリスは、本来、“アリの組織の外で”活動すべきものである」
ということです。

ただ、日本は、未知や混沌を打ち落とすこともするので、「アリの組織の外」というのが日本国外を指す可能性すらあります。
実際、「イノベーションはアメリカで行(おこな)ったほうが早い」と言う人すらいます。
未知や混沌を嫌がる日本は、そもそも、イノベーションの孵卵器として不適合だということです。

「メタレベルの」マネジメント。大企業でも、これができれば良いのですが、難しいのでしょうね。
新しいものを生み出さなければやっていけない、ゲームや漫画、エンターテイメント系だと、これが上手い人材がいそうにも思います。そちらの文化で引っ張っていくなら可能なのかも知れません。


※ 引用内の()は、作者のものと私のものが混在しています。

『アリさんとキリギリス』(2017/12/8)という本が出ているようです。

参考
祝福であり呪いであり


次回も、これに連なる話を書きます。
イノベータとエクゼキュータの話をします。
「思考回路の違い」を認識させるためだと思ってください。
最近少し話題だったハキリアリの話も入れています。

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