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「他人」と「自分」の視点とパーソナルな枠。

団体に所属しているとその団体の演出家のみからの教えになって、他の人の教えというものを習うというか演出を聞く機会がないんだよね的なことを近頃たまに言われる。それでも個々で足りないものは補おうとワークショップ行ったり、殺陣やらダンスやらなんやらと通う人はいるわけですけども。

これは恒例になるのか謎な劇団×音楽部んとこにまた老体は謎テキストの山を持ってテケテケと飯能に行って来た。

また飯能かよ!

この間思い切り別方向から「何しに行ってんの?また小難しいこと言ってんの?」と聞かれたが、歳食ったからそんなに小難しいこと言うことも放棄しているし、テキスト作ってもそれもクッソ小難しくない文面にしてるから「んなことねぇよ」と現役時代を知る人に言い返していたけど。

演出をする人にはそれぞれの「演出論」みたいなものは存在している。作も兼ねていたらそれはそれでやはり存在している。いろんなお偉い人らの演出論やテクニック論みたいなのはほぼ網羅してるけど、ワシがそれを理解する時に置き換えるのは自分が持ってる「空間論」やらであって、それは空間のことや精神学や心理学やら哲学がそもそも演出論よりも先に脳みそに入ってたからそうなだけともいう。最近もうそれも言わなくなったけど、でも死んでも己を演出とは言わんのは普遍。

ちなみに役者にも「役者論」ってのは存在してるわけですが。

劇団×音楽部の人らを眺めるわんこ会長さん。

おそらく役者としてどこかしらで教わったりした人らって自己解放・自己開示やパーソナルスペースの話っつうのは演劇的に、役柄に向かい合う・やる方法として教わってたり、無意識にやっていたりすると思う。そーいうもんだと思う。が、こういうのって実は介護の職業訓練やらでもやることだ。就職活動する生徒にも必要で、やってたよ、ワシ。教えてたもん。そして日常生活においても実は発生している問題・課題であって、人間関係やなんやらにも影響している。つまり身近な問題として置き換えれば実はわかりやすい話でしかないんですよ、多分。わかりやすくても意識するかしないかってのはまた別の話だけども。

劇団×音楽部は“劇団”ではあるけれど、よくある共通言語の“劇団”の括りにしてはいけないと思っている。おそらくこういう色を持っている劇団と言うのは他にもあるんだろうけれど、それともまた違うんだろうし、いわゆる“社会人劇団”として括っても不正解なもの、ある意味謎な集団なんだと思う。

結成してから月日がある分、歴史もありつつ、ま、独特だよね。

一番偉い人な芳賀鉄也はあの手この手で伝えようと丁寧に悪戦苦闘してるのははたから聞いてるととてつもなく「親切・優しいよなぁ」で、それをわかろうとしている劇団員達ももれなくそうなんだけども、でも彼らに中途半端な手垢な「演出論」や「演技論」はいらないんだよ。だって芳賀鉄也が正解言ってるんだもん、その正解にたどり着くまでの道程だけが足りない。

それは集団としての色もそうなんだけど、個の問題、個々との関係の問題の客観視というものが不足しているだけなんだと思う。それは突き詰めたら観客との関係性にもなるわけですがね。

ワシと芳賀鉄也の作風が根本的に違うので、多分余計にそれを思うのだと思うし、手垢つかないところの、基本というわけではないんだけど、それ以前の情報だけ投げとけばいいんだろうってことで黙々とテキスト作ってたんだけど、結局何故かやってたのクセとパーソナルスペースのところだけだったっつうね。これは誰でも詰まるんだよね、実は。

ありがちありがち。でも他のとこ読んどいて、どっかで、である。

演劇もどきなうちは確実に「静」なので「動くな」ってのが必須事項と言うか、意図的に視点と距離を固定させるというぐっちゃらした理論が発生してんだけど、それを観客が理解しているかは置いといて、でもワシマニアは知ってんだけども、何重かの意味と情報は目前においてある。拾うか拾わないかは受け手任せでしかない。でもって劇団×音楽部は「動」だ、動なものを作っているわけですよ。要するに真逆なわけ。真逆だからこそ、妙な干渉はしないところで、餌になるのか知らんけど、餌っぽいのものは投げやすいわけですよ。ワシが「動」なもの作ったらえらいこっちゃになるよ、役者が通常とは違う意味で死ぬよ(笑)…いやしないけど、うん。

静であろうと動であろうと、駒なんだよね、大前提の意味は。

「駒=個」なわけだが、「個」であるってのを成立させるのは難しい話デスよ。「個」の定義もいろいろあるわけですよ、現実問題。それぞれの持ってるもの+αからの引き出し方の場合もあるし、自覚ないもの、隠れてるものを引き出す場合もあるし、新たに作っていかないといけない場合もあるわけですよ。他にもいろいろありますけども、蓄積ですよ、蓄積。日常生活だろうとなんだろうとすべて使えるもんは使うんですよ、経験として。

っての中で、パーソナルスペースというのはもうほんま難しい話である。歳食えば食うほどそれは強固になってしまっていて、自分を守る為に必要だから発生している。心も身体も、両方発生してしまって、それを壊すっつうのは歳を追うごとに難しくなってしまいやすい。子供にはないから原則、どこからか人見知りやなんやらが発生して…段階経て出来ていく。人間関係が増えていく、人と接する機会が増えていくと出来ていく。

そりゃそうですよ、だってみんな傷つきたくないし、不快になりたくないし、嫌悪感が瞬間でも味わいたくないですよ。

でも相手と仲良くなる、親しくなるには何かしらどこからかパーソナルなところは壊さないとあかんわけですよ。もちろん壊さないで双方の適切な距離というものの取り方はありますけれども、壊した場合どうなるかのオチがわかっていないと無理である。考え方の問題ですけどね、マイナス思考なら最悪のマイナスからの逆算でいいんだよね、無駄にプラスにする必要はない。出来ないなら出来ないで、出来ないところのギリギリのマイナスを見定めるだけの話で。

遠回りかもしれんけど、「個」「自分」をちゃんと見ないとあかんのさ。そして「他人」をみなきゃいけないんだよ。その距離で話してるのには理由があるんだよ、自分がその距離が楽なのは自分なのか相手なのかとかね。日常生活でもね、なんでもそうさ。

ま、一応うちの子?になっている山崎正悟のそういうのは日常生活や役者として脳内に叩き込まれている状態だったから特にしなかったといえばしなかったんだけど、でもワシは人の保持しているパーソナルスペースをぶち壊すのが趣味に近いというか、彼が持つ、ある意味鬱積している部分はぶち壊したけどね。ま、それでもまだ澱のようにあるし、でも変なところはズケズケになってるから本人的にいいっちゃいいんだろうけど、それを有効活用しないところに腹が立つ。

それは置いといて。

劇団×音楽部は遠回りした方がいいんだと思う。遠回りした方が、それぞれがもっと考えるようになるから。本公演が決まってしまうとそれに追われてしまうから、その前にそれぞれ遠回りした方がいいんだよ。最短の答は一番偉い人の芳賀鉄也が持ってんだもん。

ま、足掻け、だ。

ということで、まだ情報公開されてないか。ワシの地味営業の成果?で劇団×音楽部の何かが発生しますよ。うちは別にもうどうでもいいから自分のことは営業しないんですよ、そしてうちの子?山崎正悟も体たらくなのでいいんですよ。だったらある種特殊な団体の劇団×音楽部が露出増えた方がいいんですよ、おもしろいから(笑)

そしてオチはStage13の編集だけではなく、他のも遠いってオチよ。(泣)










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