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『薄氷を踏む』

颯(さつき)は自分の人生が一変したその瞬間も、鏡の中ので自分自身と向き合ってジッと待っていた。颯の瞳に映るのはかつての彼女ーエネルギーに満ち、笑顔の絶えない歯科医師。しかし、その鏡に映っていた姿はやがて霞がかって消えていった。颯は無情なグリーンの床に視線を落とした。
颯がいるここ伊勢山ヒルズは、丹沢山系の大山の麓にある伊勢山駅前の有料高齢者施設だ。
 2022年遥かなる異国の地ロシアがウクライナを侵攻するというニュースが流れる中、颯は自分の人生も一変することを知る由もなかった。
颯がもう一度鏡を見ると、そこには難病と闘う、車椅子に座る女性がいた。それは、颯自身だった。彼女はフーっと深く息を吸って、今度は鏡から目をそらした。その姿こそが、颯の人生の新たな始まりを予兆していた。
 颯の難病の症状は声のかすれから始まった。
颯が長く話をすると段々掠れ、彼女の声を聞き取れない相手に聞き返される。そういう事が多くなっていた。
当時歯科医師をしていた颯は、患者に病状を話さなくてはならない。それ故に、声が掠れる事は颯の仕事の妨げに他ならなかった。
颯は原因を見つけてくれる病院を渡り歩いていたが、どこも病名はつけてくれなかった。
(現代の医学で、こんなことってあるだろうか)
と颯は考えていた。
そこで、颯は一念発起して、都内で有名なボイスクリニックに行ってみることにした。
鼻から内視鏡を通した医師は、内視鏡のモニター画面を見ながら首を傾げていた。彼は即矢継ぎ早にクリニックの系列の神経内科に紹介状を書き、颯に手渡した。その病院に行くと、優しそうな神経内科の専門医は謙虚に颯に言った。
「検査をしましょう、難病の疑いがあります」
その言い方は帰って颯を出口のない迷路に入り込んだかの様な不安な気持ちにさせた。
いくつもの検査が進むにつれ、その不安は颯の頭の中で、まるでパンを作る時の発酵した生地のように膨らんでいくようだった。
颯は歯科大の講義を思い返していた。その病気は筋肉が衰えて、目の動き以外の動くことを奪う、つまり、自分では動けない酷な疾患だ、と頭がピカピカの教授が叫んでいたと颯は思い出した。
この病気の酷なところは、食べたくても自分でスプーンを口に運ぶことは出来ない、お風呂やトイレに自分で行けない、スマホでインスタアップしたりlineの返信もできない、プレイステーションやスイッチで遊んだりもできない、体がかゆくても自分で書くことが出来ない、蚊が顔に泊まっても自分では払い除けれない” 等々”できない”ことをあげたらキリがない。”生き地獄”という表現がピッタリだと、颯は感じていた。

そして、颯の判決をうける運命の日がやってきた。颯は、満70をすぎた、でも年齢よりも若く見える母親と診察室にいた。
「難病の初期症状です」
と優しい声の専門医は颯に宣告した瞬間、なんとも言い表せない感情が湧き出てきて、激しい涙が溢れ出てきた。
一方で、逞しく振る舞う母親は、何とか治療法はないものか専門医に執念深く迫り、症状を緩やかにする処方薬があるという情報を掴み取った。
(そんなの効果があるのだろうか)と颯は半信半疑だった。
それから、薬を服用しながら、あきらめの悪い颯は杖や歩行器でがむしゃらに闘いを挑んだが、容赦なく迫りくる運命によって、遂に颯は歩歩行することさえできなくなった。これに伴い、腕や指、声の発語失行になり、颯は奈落の底に突き落とされた。
それで、颯は伊勢山ヒルズに入所することとなった。最初の数年は居心地は悪くなかった。それが、施設の方針が変わり、施設の幹部が入れ変わると颯には辛い課題を押しつけられるようになっていった。
颯の人生が一変する出来事がすぐそこまで迫っていた。 

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