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心の壁を越えるために

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岡山県にある長島愛生園をフィールドに,ハンセン病問題について,その歴史的過程(排除・排斥・隔離の歴史)と実態(なぜ差別されたのか)の解明などを通して,我々が将来に向けて何を学ぶべ…
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#成田稔

光田健輔論(49) 変革か呪縛か(4)

<歴史に、もし・たら・れば…はない>とは至言であるが、差別史などを調べているとつい考え込…

藤田孝志
13日前
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光田健輔論(48) 変革か呪縛か(3)

※ 私は通常「敬称」を付けて記述することを原則としているが、特別な場合を除き、以後は「敬…

藤田孝志
2週間前
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光田健輔論(46) 変革か呪縛か(1)

戦前の「光田イズム」は、戦後のハンセン病医療を担った光田らの次世代の医者や厚生省官僚にど…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(45) 不治か完治か(5)

1941(昭和16)年、アメリカで「プロミン」が開発された。当初は結核の治療薬として作ら…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(7) 偏執と固執(4)

光田の最大の罪過は<断種・中絶>である。なぜ光田はハンセン病患者の未来を断絶する政策をと…

藤田孝志
7か月前
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光田健輔論(6) 偏執と固執(3)

なぜ光田は<絶対隔離>政策を発想し、死ぬまでこだわり続けたのか。成田稔氏は次のように書い…

藤田孝志
8か月前

光田健輔論(5) 偏執と固執(2)

光田健輔は、『愛生園日記』『回春病室』と題する2冊の自伝的回想録を書いている。『愛生園日記』の「ライ医学者になるまで」「養育院時代」より、若き日の光田の動きをまとめておく。 21歳の東京大学専科の医学生として病理学教室に在籍していた光田健輔とハンセン病との最初の出会いであった。この死体から病変組織の一片をもらい、1年以上保存して詳細に調べている。そして、国内外の医学雑誌に掲載されているハンセン病に関する論文を読み漁り、教授にも意見を聞いてみるが、確かなことはわからない。そこ

光田健輔論(3) 善意の思い込み

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に、次のような一文がある。 そのとおりである。ハンセ…

藤田孝志
8か月前
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