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心の壁を越えるために

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岡山県にある長島愛生園をフィールドに,ハンセン病問題について,その歴史的過程(排除・排斥・隔離の歴史)と実態(なぜ差別されたのか)の解明などを通して,我々が将来に向けて何を学ぶべ…
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#成田稔

光田健輔論(57) 「三園長証言」の考察(6)

1951年11月に行われた「三園長証言」は、翌1952年5月の第1回全癩患協支部長会議の…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(55) 「三園長証言」の考察(4)

光田健輔の持論を簡略にまとめておくならば、「すべてのハンセン病を患者を強制的に絶対隔離す…

藤田孝志
1か月前
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光田健輔論(49) 変革か呪縛か(4)

<歴史に、もし・たら・れば…はない>とは至言であるが、差別史などを調べているとつい考え込…

藤田孝志
3か月前
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光田健輔論(48) 変革か呪縛か(3)

※ 私は通常「敬称」を付けて記述することを原則としているが、特別な場合を除き、以後は「敬…

藤田孝志
4か月前
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光田健輔論(46) 変革か呪縛か(1)

戦前の「光田イズム」は、戦後のハンセン病医療を担った光田らの次世代の医者や厚生省官僚にど…

藤田孝志
4か月前
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光田健輔論(45) 不治か完治か(5)

1941(昭和16)年、アメリカで「プロミン」が開発された。当初は結核の治療薬として作ら…

藤田孝志
4か月前
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光田健輔論(7) 偏執と固執(4)

光田の最大の罪過は<断種・中絶>である。なぜ光田はハンセン病患者の未来を断絶する政策をとったのだろうか。 結論を先に書くならば、光田の「癩恐怖症」が「癩菌の絶滅」のための要件として家系の存続を許せなかったのだと思う。まさに「根絶やし」にする以外、光田は納得できなかったのだろう。 古来よりハンセン病は、因果応報の病、すなわち「業病」「天刑病」と考えられたり、血統の病気、すなわち「遺伝病」と考えられたりしてきた。だが、1873(明治6)年に、ノルウェーの医師ハンセンが病原菌(

光田健輔論(6) 偏執と固執(3)

なぜ光田は<絶対隔離>政策を発想し、死ぬまでこだわり続けたのか。成田稔氏は次のように書い…

藤田孝志
11か月前

光田健輔論(5) 偏執と固執(2)

光田健輔は、『愛生園日記』『回春病室』と題する2冊の自伝的回想録を書いている。『愛生園日…

藤田孝志
11か月前
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光田健輔論(3) 善意の思い込み

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に、次のような一文がある。 そのとおりである。ハンセ…

藤田孝志
11か月前
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