光田健輔論(48) 変革か呪縛か(3)
※ 私は通常「敬称」を付けて記述することを原則としているが、特別な場合を除き、以後は「敬称略」にする。ご理解いただきたい。
ハンセン病国賠訴訟の証言に立った犀川一夫は次のような疑問を述べている。
犀川の言う「昭和23年の東局長の、あの国会の答弁」とは、1948(昭和23)年11月27日の第3回臨時国会衆議院厚生委員会での発言ではないかと推測するが、当時、国会においては<特別病室事件>の審議が行われており、関連して「らい刑務所」の設置や「癩予防法」改正について議論されていたので、その中での答弁と思われる。
犀川一夫の「謎」について、すなわち、なぜ厚生省は犀川の望む「外来治療の可能性」から一転して従来の「癩予防法」を踏襲するという、むしろ強化する「らい予防法」に改正したのかを考えてみたい。
犀川が言う「1948(昭和23)年」から、「癩予防法」の改正(「らい予防法」)の「1953(昭和28)年」までの5年間に何があったのか。
1953年、「らい予防法」を成立させた理由について、藤野豊は次のようにまとめている。
私も同感であるが、特に厚生省が方針を転換した要因については、次のように考えている。
1つは、感染の危惧である。
プロミンの効果を認めながらも、その治癒力や滅菌力の不確かさ、さらに社会や人々に深く浸透している<強い感染力>といったハンセン病に対するまちがった<知識と認識>(これは審議する国会議員も同じであった)を否定するだけの実証的治験が未だ不十分であった。
2つは、<特別病室事件>の影響である。
<特別病室>の存在が公になった契機は、戦後にハンセン病患者の選挙権が認められたことから共産党の遊説隊が栗生楽泉園に入ったことである。共産党の支援を受けて患者による園当局に対する「人権闘争」が始まり、新聞報道によって社会に衝撃を与えた。その後、厚生省や国会の調査団が入り、職員による不正事件とともに、衆議院厚生委員会で取り上げられた。この結果、「特別病室」は取り壊されたが、逆に「癩刑務所」の必要性が浮上したことなどから「癩予防法」の改正につながっていった。
3つは、療養所自治会活動に対する懸念である。
戦後に各療養所で結成された「自治会」が各療養所で組織化されていく中で、多摩全生園で組織されたプロミン獲得促進委員会による運動の成果が、各療養所の自治会の組織的拡大を加速させた。さらに各療養所を結んだ全国組織が結成されるに至り、患者の自治会運動は全国的になったことで大きな発言力を得るようになっていく。
4つは、国外から流入するハンセン病者への対応である。
朝鮮戦争から逃れるために日本に密入国を含めて多くの朝鮮人が入国してくる。その中に多くのハンセン病患者がいると思い込んだ。
これら以外にも考えられる理由はいくつかあるが、何より光田健輔ら絶対隔離主義者による現行の維持とさらなる隔離収容の徹底という要求が厚生省に大きな壁となって立ちはだかったと考えている。各療養所の所長や医師たちもまた、ハンセン病の権威として君臨する光田健輔に逆らうことはできなかっただろう。それほどに光田の<呪縛>は強かった。
プロミンの効果は厚生省にも伝わっていただろうし、ことからも、東はプロミンに関する知識を早くから持っていただろう。そして、東ら厚生省官僚は、プロミンの効果によってハンセン病は「完治する病気」であると認識を新たにしただろう。その上で、患者の「軽快退所」と「外来治療」を認める方針を立てたのではないだろうか。その理由として考えられるのは、患者の人権よりも、療養所の運営費や増床などの諸経費の削減である。
前々回、1949年度国立癩療養所所長会議での発言を紹介したが、その席で東は「過去と現在とでは状況が全く異なるから、必要があれば『癩予防法』を改正してもよい」と発言し、らい対策の転換を示唆している。当時、東龍太郎は東京大学教授を兼務していることから、プロミンに関する知識はある程度は持っていただろう。(当時の厚生大臣竹田儀一の回想録にはドイツに派遣されていた東に電報を送ってプロミンを取り寄せたとある)
次いで発言した予防課長小川朝吉の「軽快退所」の提案を聞いた光田健輔は、直ちに「そのような生兵法は大怪我の基だ。軽症な神経型で光田反応陽性であっても末梢神経に新鮮ならい菌が証明された症例があり、たとえ軽症患者であっても退所させてはならない。遺言として言っておく」と反論したという。
また、1949年5月の第5回特別国会衆議院厚生委員会において、東はプロミン注射の業務が加わるので職員定数の増員の必要や居住室の改善の必要を検討していると述べ、療養所をコロニー形態にするのが妥当とも言い添えている。
犀川一夫の言う「昭和23年の東局長の、あの国会の答弁」は東の本心だったのだろうか。厚生省にとっての懸案は予算である。療養所の運営費、医官や看護婦の増員、増床などの予算の増額は難しい状況であったはずだ。まして同年には「癩刑務所」(菊池医療刑務支所)開設の予算(1500万円)が決まっている。
しかし、翌年(1950年)になると、厚生省は5月からの5か月間で全国一斉検診をおこない、患者を摘発し隔離している。このため、全国の国立療養所の定員を2000人増加し、「癩予防法」を改正して、30か年でハンセン病を絶滅させる計画を発表する。
あくまでも私の臆測であるが、「特別病室事件」に関係して国会厚生委員会において、社会党や共産党から療養所の施設並びに生活改善と患者の人権への配慮を求められた政府や厚生省がその批判の矛先を逸らすための答弁ではなかったかと考えている。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。