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光田健輔論(7) 偏執と固執(4)

光田の最大の罪過は<断種・中絶>である。なぜ光田はハンセン病患者の未来を断絶する政策をとったのだろうか。

結論を先に書くならば、光田の「癩恐怖症」が「癩菌の絶滅」のための要件として家系の存続を許せなかったのだと思う。まさに「根絶やし」にする以外、光田は納得できなかったのだろう。

(ハンセン病は)古代には「虫」ないし「風」、中世には「業病」、近世に至っては「血筋」などがその時代に特有の病因として人々に認識された。それらはいずれも、近代の科学主義的な視点からすれば特進できるものでは到底ないが、それはそれで時代情況に制約されたある種の合理的な世界(病状)解釈だったのであろう。

田中等『ハンセン病の社会史』

古来よりハンセン病は、因果応報の病、すなわち「業病」「天刑病」と考えられたり、血統の病気、すなわち「遺伝病」と考えられたりしてきた。だが、1873(明治6)年に、ノルウェーの医師ハンセンが病原菌(「らい菌」)を発見し、1897(明治30)年にベルリンで開かれた第1回国際癩会議でハンセン病が感染症が確認されたことで、科学的立場から「天刑病」「業病」あるいは「遺伝病」であることは否定された。その結果、感染症である以上、「隔離」が必要であるという認識が広まった。

しかし、日本では「癩に罹患しやすい体質の遺伝」に関する論議が続き、光田はこの「体質遺伝説」に固執し続けた。それが<断種・中絶>への偏執となった。
ハンセン病の「遺伝説」をめぐる医学的・予防医学的・疫学的見解については、やや専門的な内容であるため、ここでは検討をしない。詳しくは成田稔氏の『日本の癩対策から何を学ぶか』を参照していただきたい。ただ、成田氏も「体質遺伝説」があったのかどうかの結論は下されていない。
医者でない私が、本書や関連書を読むかぎりにおいても明確に否定はできない。つまり、罹患しやすい体質は、いかなる病気においても、程度の差によってある。その体質が「遺伝」によって受け継がれる可能性は否定できない。
成田氏は、「癩に罹患しやすい体質の遺伝についての論議が続いた」理由を「わが国に詳細な疫学的研究が少なかったことによろう」と述べている。それが当時、光田の「家族内感染」「体質遺伝説」を批判しきれず、政府の「絶対隔離」政策を止めることができなかった理由であろう。


光田は<ワゼクトミー:断種>を「男女の性」の問題から正当化しようとする。つまりハンセン病患者が子どもを持つことの否定が前提である。

「所内婚姻」に関しては、大きく2つの目的があった。1つは性愛の問題であり、もう1つは逃走の防止であった。
「性愛の問題」について、光田は次のように書いている。

…絶望的な人間が、その日だけを生きて行こうとする刹那的な享楽を求めることは当然ではあろうが、その享楽といっても院内で求められるものはとばくと姦淫くらいで、それは初期の療養所では悪いとわかっていても手のつけようがないような状態であった。
当局としては決して放任してあるのではなく、十分に警戒も監視もしているのだが命令はよくきかれず、手段はなかなか巧妙であった。男性三、女性一くらいの割合であるライの療養所では、性の問題はとくに深刻である。女性の掠奪、暴行、時には傷害の犯罪まで起こっている。処女も、人妻も、院内で性の純潔を保障することが困難で、心にもない結婚を強いられて親にもいえない妊娠に苦しむものがあった。内縁ではあるが、夫のある女が他の男と逃走したこともあった。数がつり合わないので強いものがちになりやすく、めくらや重症で動けないものが「よき伴侶」を奪われることが多い。ここに道徳の無政府状態があらわれ、生まれるはずのない赤ん坊が毎年十数人ずつ生まれて来た。

光田健輔『回春病室』

光田は「深刻な本能から発する性の衝動は、禁令や監視で圧さえられるものではなかった」と述べているが、光田は男女の「性愛」よりも、それによって「赤ん坊がが生まれてくる」こと、「子供をどうして育てるか」を重大な問題と考えていた。

ことに医者の立場からみていると、生後間もない子供の薄くて傷つきやすい皮膚をとおして、室内に満ちているはずの菌が伝染することを思うと、一刻もそこにおいておけないのであるし、さらにまたそのような生後の伝染ばかりでなく、母の胎内にいるときでも、母胎の血流に浮んでいるライ菌が、流れのままに子宮、胎盤を通過して胎児に達することも考えられる。どう考えても患者に子供を産ませることは絶対に悪いことであって、断じてこれをやめさせなければならない。

光田健輔『回春病室』

光田は「分離保育」を養育院幼稚室に依頼して行っているが、その費用の問題、癩患者の産児は部屋を別にし、世話をする保母も必要となるなどの理由から継続ができなかった。なんとしてもハンセン病患者に子供を産ませないという思いが光田に<断種手術>を断行させたのである。

断種手術、すなわち精管部分切除術による男性避妊手術は、癩療養所内の妊娠・出産を阻止する目的で、1915年に光田によって導入された。そのときの光田の真意は、終生隔離を原則とするからには所内婚姻も止むを得ないが、その結果である産児の分離保育は至難というよりは不可能と考えて、断種を唯一の解決策としたはずである。しかしそれは本来違法(傷害罪)ということだったので、その正当化のために、どれほどの確信があったかわからない胎児伝染説などを持ち出して議論をこじらせてしまった。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

同病の異性を見ては、長い年月の間に相寄り、相助ける美しい共同生活-進んで夫婦生活ができるならば、その生はどんなに慰められることであろう。…子供さえ生まずにすむなれば、男女の共同生活、或いは夫婦生活は断じてできるようにしてやるべきである。

光田健輔『回春病室』

一見、光田の言葉はきれいに聞こえるし、なるほどとも思えるが、光田の立場に対して客観的に見るならば、まるで飼い主がペットを飼育するために「去勢」するのと同じである。飼い主の都合(考え)によってペットの性衝動を容認する代わりに、(結果としての)繁殖をさせない。
「逃走」や「性犯罪」の抑止として、夫婦生活や性愛を認めようとする。これも、飼い主がペットを1匹ではかわいそうだからという同情と同じである。

宮坂道夫氏は、光田の<断種>について、次のように批判する。

人間の性を語ることばとして、「刹那的な享楽」「姦淫」という表現がされることに痛ましさを感じる。光田が全生病院で断種を始めたころ、患者の夫婦関係は「情夫関係」と呼ばれていたという。
…「善良なもの」と「不良なもの」に峻別する意識が読み取れる。「善良なるもの」に対しては、「人間の自然な欲求」として性のいとなみを認めよう。「不良なもの」は、「いかがわしい欲求」によって「道徳の無政府状態」をもたらす恐れがあるから、これを力で抑え込まなければならない。-そのような意識が透けて見える。
光田は、男女の分離に代わる最善のアイディアとして「ワゼクトミー」つまり男性の政官結紮による「断種」を考案する。これは、当時の医学の世界に流行していた「優生学」から生まれた手段だった。
…男性患者の不妊処置だけでなく、女性患者に対しては強制的な人工妊娠中絶が行われた。それどころか、中絶というよりは「嬰児殺」というべき処置もあった。
…このような強制的な断種や堕胎は、単に患者本人や胎児に対する暴力であるばかりでなく、時間をかけ、何十年後にもなって効果を表す「遅効性」の暴力でもあった。断種を受けて何十年もたって年老いたころ、すでにハンセン病の治癒した回復者たちは、あらためて子供や孫が持てないことを寂しく思った。社会復帰が可能になったのに、頼りになる子供たちがいないことに愕然とする人たちがいた。断種は、長い年月の後に、社会復帰を難しくする弊害をもたらしたのである。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

光田を敬愛する人々が光田を顕彰する際に口にする「救癩の父」「慈愛」を、私は甚だ疑問に思っている。光田の独善性を隠蔽するための欺瞞に思えて仕方がない。
なぜ<断種>なのか。生まれる子供の将来を悲観して、あるいは男女の性愛を尊重して、優生思想を背景にした「国家の強化」のため、さまざまな理由を並べようとも、本来の人間がもつ自由意志と尊厳において、他者が<断種・中絶>を強要することはまちがっていると、私は強く思う。

宮坂氏は上記の著書で、<「懲罰」としての断種>を取り上げている。

…療養所での生活を保障し、性のいとなみまで認めているのに、なおも抑えきれない患者の不幸については、もはや罰することで抑えるほかはない。「不良なもの」に対しては、やはり力で抑え込まなければどうしようもない、という発想がここでも頭をもたげてくる。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

光田はハンセン病患者を同じ人間として見てはいない。彼は<家族主義>(パターナリズム)として自らを家父長と位置付けて、職員や患者を家族の一員もしくは子供と見なしているが、私には患者は家族ではなく、飼育している「ペット」であると感じられる。だから、意に反する患者には「懲罰」を、根絶するためには「断種」「中絶」を、世話の手間を省くためには「患者作業」を、逃げ出すものには「監禁」を命じたのである。

それは光田だけではない。日本占領下の朝鮮半島に作られた「小鹿島更生園」では「懲罰」として「断種」が行われていた。

患者作業を無断で休んだ人、日本式の神社への参拝を拒んだ人、その他、命令に従わなかった人が監禁され、断種された。懲らしめの仕上げとして、なぜ断種なのか。その理由が患者に説明されたことはほとんどなかった。小鹿更生園では、男性が逃亡や犯行のために監禁されれば、ほとんど決まって断種されるというのが、当然のことのように慣行化していたらしい。監禁所のすぐ隣に解剖室があり、断種はそこで行われたとされる。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

日本の占領政策の非人道的な行為は証言として多く残されているが、ハンセン病患者への残虐な仕打ちは歴史から消されてきた。教科書では「皇民化政策」(同化政策)として創氏改名や日本語の強制授業などは取り上げられるが、朝鮮や台湾でのハンセン病患者への隔離政策が記載されたことはない。

研究という名目の下で、死亡したほとんど患者は「解剖」された。入所時に解剖承諾書を書かされている事実も明らかになっている。それどころか、光田はワゼクトミーの第1号となった患者を説得して、その患者の睾丸を摘出して顕微鏡で観察し、精子が作られていることを確認している。
宮坂氏は「光田の考えでは、性欲が失われず、性機能も損なわれず、ただ子供が生まれることだけを防ぐ、というのが、ハンセン病患者に与えるべき『性と生殖』の再興の『恩恵』だった」と述べている。繰り返すが、それは飼い主がペットに与える「恩恵」と些かも代わりはしない。光田は自分が「神」にでもなった気でいるのだろうか。無自覚な権力者の姿が見える。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。