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光田健輔論(6) 偏執と固執(3)

なぜ光田は<絶対隔離>政策を発想し、死ぬまでこだわり続けたのか。成田稔氏は次のように書いている。

…「拘る」とは「必要以上に」の意であり、そのように「拘る」のは病的と考える。それはおそらく強迫神経症(癩菌恐怖症)だろうが、光田はその本性を国際情勢からまったく乖離した絶対隔離の、正当性についてのみ露にしていたわけではなく公私にわたっていた。私事については第三者にわかりようはないが、たまたま子息の証言があり、その行為は癩菌恐怖症としか言いようない。公のほうは絶対隔離の件はともかくとして、まず涙もろさは新患者の診察の際によく見せたようだが、恐るべき癩菌に蝕まれた人を見て「かわいそうに」とか「気の毒に」とかいう思いが強ければ涙するかもしれない。そのあと言われた通りに入所してくれればいとしい思いにかられて当然だろう。逆にそうした思いが強ければ強いほど逆らうものへの憎しみも強くなるのではないか。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

「子息の証言」とは、「帰宅しても赤児は絶対にだいたりせず、入浴も家族が全部は入って最後にした」(横田篤三)である。関係者の光田への思い出には真逆の逸話も数多く書かれているが、それはあえて<見せかけ(偽り)の素振り>であったのかもしれない。光田自身が豪語するように、誰よりも多くの患者を診察し、数千体の死体を解剖してきた自負心がハンセン病の第一人者という「権威」を自認させてきた。それは医者の多くが避けようとする感染のリスクをも超えなければならない。恐怖は相当に大きかったのではないだろうか。感染のリスクよりも患者を救いたいという慈愛、ハンセン病を根絶するのだという使命感を周囲に対して見せ続けることで、周囲から尊敬と賞賛を得ると同時に、批判を抑え、黙らせ、自分の思いどおりに政策を決定できる権威と権力を手に入れてきたのだと思う。それは自説=絶対隔離を正当化するための手段でもあった。自らの権威と権力を高めることで自説への批判を退け、絶対隔離を維持することで自らの権威と権力を高めていったのである。

それは戦後、ハンセン病の特効薬であるプロミンが承認され、患者が「無菌者」となっても絶対隔離を緩めなかった姿勢、それどころか1951年第12回国会参議院の厚生委員会における参考人招致による<三園長の証言>での「隔離の強化と患者への懲戒規定の強化」の主張に見られるように、光田は頑迷なほどに自説に固執する。時代の変化も国際的な動向も一切関係なく、ただ自らが構築した<絶対隔離>の現状を堅持しようとする光田の執念がある。

藤野氏は、法律「癩予防ニ関スル件」に対する医師や神山復生病院のベルトラン院長やレゼー神父、『病者の複音』の編者の中村鉄太郎などの批判を紹介しながら、次のように述べている。

以上のように、法律「癩予防ニ関スル件」については、その制定当初からその本質を突いた批判が次々と提起されていた。その批判に共通するのは、隔離される患者の人権への危機意識であった。たしかに隔離を予防のすべてとするこの法律の論理は、隔離後の患者の境遇など度外視したものである。患者の姿を街頭から消し去ることを目的とする以上、その後の患者の人生は無視されたのである。現在でも、光田健輔と内務省官僚らにより確立されたこの乱暴な論理を正当化している医療関係者は少なくない。

藤野豊『「いのち」の近代史』

「人権」という概念と内容が現在とはほど遠いこの時代にあっても、隔離によって奪われる患者の自由や人生を憂慮する人々が確かにいたことは一抹の希望を感じる。
なぜハンセン病問題に関心を寄せ、その歴史を究明しようとする人々がいるのか。コロナが蔓延し患者隔離が始まったとき、一番に危機感を訴えたのは療養所に暮らすハンセン病回復者たちだった。彼らは自らが味わった隔離の辛苦が再来するかもしれない危惧を強く感じたのである。権威の声に後押しされた権力が「国民の安全安心」の名の下で繰り広げられる人権無視の排除と抑圧を敏感に察知したのだ。自分に降りかからなければ鈍感のままに過ごしてしまう我々は、彼らの警鐘に耳を傾けなければならない。


<絶対隔離><断種・中絶><強制労働><懲罰>の関係と構造についてまとめておく。

<絶対隔離>の目的は「根絶」である。感染源であるすべての患者を一般社会から隔絶した「施設」に収容し、終生そこから出さないことで、「感染」を防ぎ、患者が死ぬことで感染源を絶滅させる。患者を<断種>することで子孫を断つ。妊娠した場合は<中絶>することで子孫を根絶やしにする。隔離した療養所の経費は国の予算である以上は限られているため、それを少しでも削減するため、また患者は無収入なので必要なものを購入するため、小遣稼ぎのため、さらに患者の運動と気晴らしのために<強制労働>をさせる。療養所からの逃走、職員への反抗、所内の秩序を乱すなどの行為に対して懲らしめと見せしめとして<懲罰>を与える。これが光田の考えたハンセン病根絶の仕組みであり、<絶対隔離>を遂行・維持するための構造である。光田がそのモデルとして長島愛生園で実際に行ったことである。

光田は1914(大正3)年、中央慈善協会長であった渋沢栄一が開いた癩病予防談話会で、「癩病予防に就いて」と題した講演を行っている。この席には、窪田静太郎ら内務官僚や内務省嘱託の社会事業家も参加している。この講演の主旨は、公立療養所の費用の全額もしくは半額を国庫が負担すること、患者の逃亡防止のため離島に隔離所を設置すること、患者に物質的・宗教的慰安を与えること、患者の不逞の輩に対する制裁を加えることなど、この時点で光田のハンセン病対策の基本構想ができていたことがわかる。
翌1915(大正4)年、光田は内務省に「癩予防ニ関スル意見」を提出する。この内容について、藤野氏は次のように批判している。

…光田はこの意見書においても、ハンセン病予防の第一案として全患者を離島に隔離することをあげている。「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或ル事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルモ必ズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」と光田は説明する。全患者を強制的に離島に隔離することは人権問題にはならないと豪語している。なぜならば、患者は生涯隔離されるのだから、社会に対しこれを人権問題として訴えるような患者はきわめて少数にすぎないからだと言う。
…第二案として、公立療養所の拡張・新設をあげているが、「無籍乞丐癩」は「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ年ヲ絶ツニ如クハナシ」とも述べている。放浪患者を「絶海ノ孤島」に隔離するべきだというもので、光田はその「絶海ノ孤島」の例として小笠原諸島をあげている。

同上

翌年、光田は内務省に設けられた保険衛生調査会の委員として、離島候補地の調査を行っている。光田が調査したのは、沖縄県の西表島、岡山県の鹿久居島・長島であり、光田は西表島を最適としたが、内務省は同意せず、瀬戸内海の長島が選ばれていく。

1919年、保健衛生調査会は「第42議会ニ対シ根本的癩予防ニ関スル法律案ヲ提出スル」ことを決め、そのためにさまざまな調査を実施している。その一つが公私立療養所長の会合であった。その席上で、公立側と私立側の意見の対立は、離島隔離の是非と患者同士の結婚の是非であった。
藤野氏は、光田と北部保養院長中条資俊の議論に注目する。
光田は沖縄の西表島を最適地としているが、暖かい地方を選ぶ理由を、衣服や食料(食材)、断熱費、患者作業など経費の削減が可能であるからとしている。中条は寒い地方を選ぶ理由を、その過酷な気候条件から患者の寿命が短くなり、経費が削減できるとからとする。
両者の意見について、藤野氏は「光田と中条は、患者にとってのよりよい療養条件をめぐって論争しているのではない。いかに安上がりに療養所を経営するかということで論争している。そこでは、患者の寿命の短い方が歓迎されているのである」と批判している。

まるで「害獣駆除」である。これがやがて「民族浄化」につながっていく。ハンセン病患者は国家にとって邪魔な存在でしかない。根絶すべきは「癩菌」であって、「癩患者」ではないはずだが、光田らにとっては「癩患者」=「癩菌」でしかない認識である。

あくまで私の推測であるが、光田は自説を批判あるいは反論する相手との論争の中で徐々により頑なになっていき、自説に固執していったのではないだろうか。それは、患者のためにという<救済>からハンセン病患者の<絶滅>へと変化であった。その要因は、内務省での地位と発言力を確保するため、あるいは「第一人者という自負心」を保持するため、政府の意図する「国家の体面」「一等国の立場」に忖度しての変化ではないだろうか。過言すれば、「癩菌」「癩病」の根絶のために「癩患者」の絶滅しかないという人権無視の過激な対策になっていったのである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。