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光田健輔論(55) 「三園長証言」の考察(4)

光田健輔の持論を簡略にまとめておくならば、「すべてのハンセン病を患者を強制的に絶対隔離することで、ハンセン病を根絶する」ことを目的とし、その理由として「感染力が強い」「不治の病」であると断定し、その手段として「家族内感染を予防」し「感染源である患者の血統を断絶する」ために「断種・堕胎」を強要する。その目的を実現するために、あらゆる手段を使っていく。療養所の設置、法整備、支援協力組織の結成、「無癩県運動」、「懲戒検束権」、「監房および重監房」、「十坪住宅」等々、光田が考案もしくは要求して実現したものは多い。その実現にはたくさんの人間の協力が必要であった。

「人誑し」とは言い過ぎかも知れないが、人から人を介して知人を増やして、政界や財界に人脈を築いていく手腕には驚くほかない。そうして知人となった人々に「持論」を巧妙に擦り込んでいくと同時に、彼らからの金銭的支援や政治的支援を得ていく。また一方で、自分の意向に反する医師たちに対しては直接間接に排除していくことで、周囲を「イエスマン」で固めていく。

では、この当時、光田健輔の推進する絶対隔離政策に反対した人間はいなかったのか。

光田らの主導する公立療養所が、その拡張と隔離最優先を掲げて絶対隔離を目指す中で、この対策の前途を危惧した青木大勇は、1924年と1931年前後に、癩療養所の運営に関する改善意見を打ち出した。その概要をまとめてみる。

わが国の官立療養所の現況は、隔離監禁本位であって、生涯この恐怖の小天地に閉じ込められ、一人寂しく病苦に呻吟するのはあまりにも悲惨である。隔離法が癩の予防撲滅に対して効果的なのは中世欧州の事績から明らかでも、これは強制隔離を全ての癩患者に行った場合のことであり、何万という多数の病者を抱えるわが国においては、第一に経費、第二に全患者数に見合う施設が必要という問題を抱える上に、患者数が多くなるほど病者の発見洩れも多くなるという予期できない欠陥があろう。さらに国際社会の趨勢に目を転じれば、国際連盟は癩の隔離を厳酷に過ぎないようにと提唱しているが、これは患者に人類愛の立場から対応し、国民の幸福のためにも犠牲を強いられた人びとの苦しみを思いやらなくてはならないという意味だろう。それにもかかわらず、伝染の難易や排菌の多少を配慮することなく、科学的根拠も持たないまま癩と診断されたものの全てを強制的に隔離し、監禁本位に取り締まるというのでは時代後れも甚だしい。…
…わが国の場合、伝染の危険性の多少を考慮せず、単に浮浪者だから病菌を撒き散らす恐れが多いとして入所を強いるのは素人考えの謗りを免れないだろうし、実際に伝染の危険性は極めて低い。それに神経癩患者を多数収容し、制限されたベッドを無意義に埋めてもいる。現実に、全国癩療養所の収容患者の三分の一から二分の一は、伝染の危険はまずなく収容する必要はない。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

青木大勇は長崎医専教授であり、後に長崎皮膚科病院を開院している。医専において、上川豊や原口一億など多くの弟子を育てている。青木は、日本癩学会創立世話人に名を連ねているが、評議員には入っていない。なお、光田の絶対隔離政策に反対した青木たちについては、『光田健輔論』(9)を参照していただきたい。


光田健輔について調べるほど、彼についてわからなくなることが増えていく。犀川一夫の言うように「まれに見る器の大きな、視野の広い、よい意味での政治家で、公式の場では、ご自分の発言が日本の『らい対策』に影響することを常に意識しておられ、しばしば、私どもには理解できない面を内に蔵しておられた方」(『ハンセン病医療ひとすじ』)であり、「対外的な先生の発言は、日本のらい行政に直接影響するだけに、先生は意識して発言しておられた」(『門は開かれて』)のだろうか。また、犀川は次のようにも語っている。

病者が忍び難い肉親との絆を絶ち、施設に隔離されるという人間としての苦悩を、誰にもまして知っておられたのは光田先生であった。それを知りつつ、あえてこの対策を推し進められねばならなかった先生の人間としての苦悩は、われわれの思いを越えるものがあったに違いない。病者を療養所に入所させるという先生の考えは、その当時、社会の誰からも疎外され肉親からも顧られず、かろうじて神社仏閣の陰に生命をつないでいた病者に安住の地を与え、人間らしい生活をさせたい、そんな思いがあったに違いない。

先生はしばしば冷酷な隔離の推進者として批判を受けられているが、先生の下で長年働いて来た私から見ると、先生を単なる隔離論者ときめつけてしまうには、あまりにも先生は人間性豊かであり、大きな愛の人と私の目には映じている。

犀川一夫『門は開かれて』

このように書く犀川一夫でさえ、「三園長証言」については、「三園長が揃いも揃って、なぜ『強制収容』とか、『消毒の実施』『外出禁止』などを強調されたのか、その真意のほどは理解に苦しむし、残念なことである」(『ハンセン病医療ひとすじ』)と書いている。そして、国賠訴訟の「証言」では光田を批判している。

ハンセン病の医学史を追うなら光田健輔のことを追わねばならないだろうが、今の時点で彼を裁くことでハンセン病の問題に決着をつけることには問題が残ると思う。ハンセン病者の傍らに居続け、多くの医者たちがハンセン病の臨床を避ける中でその弟子となる人たちを育てた、という点では偉大であると思われる。それを光とするなら、ひとりの病者よりも国家ということを考えた明治の人間、自分がハンセン病国の国王と錯覚したら修正はできないという気骨を貫き通したところに、大きな落し穴、というより大きな欠陥、犯罪性、があったと言えようか。特に、戦後間もなくプロミンという特効薬が出現した時、ひとりでも多くの患者にプロミンをという運動をしなかったどころか、10年の経過を見ないとプロミンの有効性はわからぬと懐疑的だったこと。それどころか、そのころからかえって強制収容を強化したなど、自分の決めたことに疑いを入れなかった狭さが、大きな不幸を招くことになったことは、認めざるをえない。放置されたハンセン病者の姿に義憤を感じ、自分は義人であらねばならないと決意し、遂行したところに、光も影もが同居することになった。

徳永進「隔離の中の医療」『ハンセン病』

光田が長島愛生園長を退任したのは1957(昭和32)年、82歳である。彼が初代園長に就任したのは1931(昭和6)年であるから、実に26年間も君臨し続けたことになる。一つの療養所に居続けたのは光田健輔だけである。国立ハンセン病療養所第1号という意味もあるだろうが、むしろ長島愛生園を日本のハンセン病療養所の頂点(中心)という位置づけが強いように思う。
光田は退官の翌年(1958年)、毎日新聞社より自伝的回想録『愛生園日記』を刊行しているが、彼が死去する1964(昭和39)年まで、東京で開催された第7回国際らい会議に出席した以外、表立っての発言はない。

青柳緑が執筆した光田健輔の伝記『癩に捧げた八十年』に、光田が退官した年と思われるが、「光田先生に感謝する会」が催され、その最後に光田が述べた「謝辞」が書かれている。その一部を引用しておく。

…わたしがやめることによって、光田イズムを打ち破る新しい道をつけて貰わねばならん。…だがわたしがやめることが、ライ者の社会復帰と直ちに結びつくというほど甘いものではないのだ。最愛の家族との離別の嘆きを味わわせて、諸君を島へ閉じこめていることに、私は一日として胸の痛まない日はなかった。しかし祖国浄化、ひいては人類の福祉のために、こうするよりほかはなかった。このことについてわたしは、誰にも恥じることはない。戦後画期的な新薬の出現で、ハンゼン氏病の観念が変わってきたことは、諸君がご承知のとおりだ。療養所を病院化して通院を認めよという。それもよかろう。だが社会に出て治療しながら幸福な生活が送れるためには、まず諸君の社会での生活の基礎を築いてからでなければ、わたしとしては安心して送り出せない。また病気は直っても、後遺症のために社会へ受入れられないものはどうするのだ。病院では病気の直ったものをいつまでも置いとくわけにはいかんだろう。これらのことに総合的な解決の道をつけて行ってほしいのだ。…わたしの生涯にやれなかった道がつくことを、私は切望している。

青柳緑『癩に捧げた八十年』

光田健輔について書かれた伝記や評伝、回想の類いは、彼を賛美する偏りが強いので、私はそれほど信用していない。青柳の伝記も、ドキュメンタリー風に書かれていることから相当に「脚色」されている。
上記の引用においても根拠となる出典がなく、果たして光田がこのように発言したか疑問である。ただ、青柳も「あとがき」の最後に「主な参考資料」として挙げている『光田健輔と日本の癩予防事業』(藤楓協会編)の最後に「退任の辞」が収録されているし、また青柳がまとめた光田健輔の著書『愛生園日記』にも「救ライ六十年感謝会」が記述されていることから、出席者への取材(もしくは青柳自身が出席していたかもしれない)によるものかもしれない。

確かに光田なら言いそうである。光田の自分勝手な言い訳であり、国家や社会に責任を転嫁した欺瞞である。患者を強制収容するためにハンセン病を恐ろしい病気であると喧伝し、無らい県運動を煽動し、国家や社会、国民に差別と偏見をより強く植え付けた張本人は光田本人ではなかったか。「絶対隔離政策」を「祖国浄化」「人類の福祉」のためとして、患者を犠牲にしたことを正当化する。「社会復帰」の道を閉ざすような「絶対隔離政策」を推進した光田が「諸君の社会での生活の基礎を築いてからでなければ、わたしとしては安心して送り出せない。また病気は直っても、後遺症のために社会へ受入れられないものはどうするのだ」などと、よくも言えたものである。

光田はプロミンの効果を10年経過しなければわからないと言っているが、この発言は長島愛生園でプロミンの治験が開始(1947年1月)されてから10年が過ぎている。しかし、光田は何ら応えていない。プロミンによる画期的な治療効果が明らかとなっているにもかかわらず、国際的動向は隔離主義を完全に否定する潮流となっているにもかかわらず、なぜ光田は沈黙を通したのだろうか。

ちなみに、前記の第7回国際らい会議に関して、青柳は『癩に捧げた八十年』に次のように光田の胸中を書いている。

…治療の面でも施設の面でも、日本は世界のどの国よりもすぐれていることがわかった。この社会部会の決議は新しい時代精神を反映しているものだとはいえ、光田健輔の隔離主義とは完全に相反するものである。だがいまや老いた光田健輔一人の手では、どうすることもできないところまできてしまった。
華々しい国際会議の成功に引きかえ、光田健輔の胸には「わが事終れり」という苦渋の思いがふっ切れなかった。人類は戦争をしてみなければ戦争の悲惨さを感じとることができないものだとすれば、ライ予防の上でも過誤を犯してみて、そのときになって、かつての隔離政策の正しかったことが再認識される事態に立ち至るのではあまりにも情けないと思わずにはいられなかった。

青柳緑『癩に捧げた八十年』

青柳の戦争の比喩も愚かだが、光田健輔にとっては残念なことであるが、逆に隔離政策の「過誤」が明らかになる「事態に立ち至」ってしまった。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。