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光田健輔論(49) 変革か呪縛か(4)

<歴史に、もし・たら・れば…はない>とは至言であるが、差別史などを調べているとつい考え込んでしまう。ハンセン病問題もまた<歴史的転換の時>を過ぎて今に至っている。「なぜ、あのときに」と思ってしまう。嘆きとか悔しさとかよりも、悲哀よりも、私には憤怒の思いが強い。

なぜ「らい予防法」は改悪・制定されたのか。この<歴史的転換>こそが、ハンセン病問題を今日まで残存させた元凶である。しかし、ハンセン病ではなく「ハンセン病患者」を偏見・差別の目で見る人々は何も知らない。この元凶に加担した人間の多くは鬼籍に入り、彼らに<呪縛>されていた人気もまた多くは老年となり余生の世界を過ごしている。彼らは自らの半生を振り返ることもなく、自己正当化のなかで、あるいは「仕方がなかった」と時代的責任制を隠れ蓑に、堅く口を閉ざして、すべてを墓場に持っていこうとしている。事実、知人は元厚生省官僚だった人間に「当時を知らない人間が…」と言われたそうである。
歴史は人間がつくる。だが、まちがった判断や決断も人間がつくる。それに加担した、関わった人間がどう「後始末」をするかである。彼らがしない、できないのであれば、私たちがしなければならない。

1953年に「癩予防法」は「らい予防法」に改正されるが、強制隔離条項が明記される一方で、治癒した患者の退所については触れられなかった。プロミン治療が普及し、治癒者が続出している状況のなかでも退所規程を設けないで、法文上では絶対隔離を維持したことになる。また、さすがに監禁は削除されたものの、謹慎を含む懲戒規程も存続させられた。…また、この改正に先立ち、1948年には「優生保護法」が公布され、ハンセン病患者とその配偶者に対する断種・堕胎が明記されていた。…戦後は、ハンセン病患者は合法的に事実上の強制断種・強制堕胎の対象となった。なぜ、国家がこうした実状に逆行するような法改正をおこなったのか。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

歴史には、ヘーゲルの弁証法的歴史観のように単純ではないが、現状を<変革>しようとする勢力と<維持>しようとする勢力が対立する<歴史的転換の時>がある。それは偶然でありながら必然である。戦後、1945年から1953年までは、まさに<その時>であった。

1947年、群馬県でおこなわれた参議院議員補欠選挙に際して、日本共産党の遊説隊が草津町にある国立ハンセン病療養所、栗生楽泉園を訪れたことで長く止まっていた「歴史の歯車」が動き出す。隠されていた歴史の闇が暴かれた。<特別病室>の実態が白日の下に明かされたのである。

1938年に開設された<特別病室>という名の「重監房」には、全国の療養所から園長に目を付けられた入所者が送り込まれ、92人の患者が苛酷な監禁と非人間的な扱いにより22人が獄死(凍死・衰弱死・自死)した。

開会中の国会、衆議院厚生委員会で取り上げられ、国会より調査団が派遣された。日本社会党の武藤運十郎は、フランス革命時のバスティーユ監獄に例えて、<特別病室>の実態を明らかにし、その廃止を強く求めた。こうして重監房は廃止された。だが、<変革>には必ずこれを引き戻そうとする動きが起こる。

重監房の廃止により、それに代わるものとして「癩刑務所」の設置を求める声が上がってきたのである。(1947年)9月26日、国会で重監房について追及していた武藤運十郎は、ハンセン病患者にも犯罪者がいるとして、重監房廃止後、そうした者への裁判や教化について「何ら建設的な機構なり、法規なり処置なり」が講じられていないことを指摘、それへの対応が「政府に課せられた最も大きな問題」であると述べている。…
これに対し、一松厚相は、11月6日、衆議院厚生委員会で「特別病室ができたがために、ずいぶん人権蹂躙というそしりもありますけれども、非常に功績をあげておることがある。何かというと社会秩序がこれによって大分保護された」「お前は草津に送るぞというと、草津に送られては困るという。草津という声を聴いてふるえあがって悪いことをせぬということになる」と重監房の存在意義を認める発言をおこない、厚生省医務局長東龍太郎は、「厚生省及び特に癩の療養所側といたしましては、癩患者といえども犯罪に対しては一般人と同様正式の裁判を受けさせて、かつ差し支えのない程度の刑を科するような設備が必要と思います。これがためには癩患者に対する特殊の法廷、あるいは刑務所内におきまして、つまり癩専門の病館を設置競られるということが、厚生省といたしましては望ましい」と明言し、さらに「すでに司法省当局等とも話合いを始めております」という事実も明らかにした。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「特別病室の食事では生命の維持すらむつかしく、厳冬下の凍死もまた当然」と断じ、「患者の処遇改善の要求を予算不足と退けるのは、官僚が自らの怠慢を弁解しているに過ぎない」と強く非難した武藤にとって、<特別病室>の廃止や患者の生活改善と「癩刑務所」の設置は決して矛盾してはいない。また、一松も<特別病室>の非を認め、東龍太郎も人権蹂躙に違いないと述べている一方で、上記のように<特別病室>の「功績」を認めている。

一松は、『毎日新聞』(1947年8月27日付)の報道に驚き、早々に関係課長ら現地調査に派遣したと答弁し、さらに調査派遣に際して「病院について調べるだけではいけない、患者について調べろ、公平無私の立場において調べてきなさい」と指示したとも述べ、「今御調査に相なるような事実が実在いたしておったといたしますれば、それはまことに重大な国家の不祥事でありますから、私は断固としてこれの責任を問うことはもちろん、将来再びさようなことの起こらないように、もし法規の上で欠陥がありますれば、それらの法改正を国会に提出して皆様の御審議を仰いで、再びそういうことの起こらないように努力する」とまで明言している。にもかかわらず、11月6日の答弁において<特別病室>の功績を述べた一松の「変化」はなぜだろうか。

彼らの背後に光田健輔の影を見るのは私だけだろうか。私には彼らの主張は光田の論理であり、光田のハンセン病患者観が反映されているように思える。管理する側に従順であれば慈愛も恩情もかけるが、反抗的な態度や「逃走」などを行う患者は懲罰の対象となる。光田の「パターナリズム」である。一松や東の答弁の変化は、光田健輔からの抗議によるものと私は考えている。

10月2日、長島愛生園長光田健輔は「国立癩療養所代表」という肩書きで、厚生大臣一松定吉に一通の嘆願書を提出する。それは、重監房における患者虐殺や職員の不正が発覚した栗生楽泉園で入所者と園当局との間に紛争が起きた件について、責任を問われた園長古見嘉一、庶務課長霜崎清、分館長加島正利への寛大な措置を求めるものであるが、そのなかで、光田は重監房について、「癩患者にして殺人、放火、強姦、強盗、暴行等犯罪行為を為す者多々ありたるも司法当局に於ては之が徹底的処分取締を避け療養所に送致するにとゞむる習はし」があったため、「不良癩患者」を収容することを目的に設置したものであると説明している。しかし、これは明らかな虚構である。重監房には、刑法違反者のみならず、精神障害となったハンセン病患者をはじめ、単に療養所当局に反抗的というだけで見せしめとされた患者も送致されている。
光田は、こうした事実には触れず、「不良癩患者に反省を促せしのみならず熊本市外本妙寺癩部落の一掃の如き本邦永年の懸案解決したるが如き又各大都市を中心として浮浪徘徊する不良癩患者の激減は実に栗生楽泉園に特別病室の設けありしに因るもの」で、重監房は「昭和初期より太平洋戦争勃発時期に至る不良癩患者跳梁期に於て本邦癩予防事業に貢献した事蹟は何人も認めざるを得ない」と豪語した(1947年10月8日付各療養所長宛て光田健輔「嘆願書提出の件」)。「特別病室」における患者虐殺が明らかになり、その廃止に向かうなかでの光田の苛立ちを示すような文面である。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「重監房」問題に関する成田稔の論文を紹介しておきたい。

成田稔「重監房(「特別病室」)について」(国立ハンセン病資料館 研究紀要第4号)

特に、「重監房が機能していた当時の栗生楽泉園の医師たち」と題した小項目では、医師たちのハンセン病患者への認識と態度を明らかにしていて興味深い。一部を抜粋して引用する。

…光田健輔ら一統の所長・院長の時代を第一世代、高島重孝らの時代を第二世代、友田正和ら、すなわち私たちの時代を第三世代と呼ぶ。
重監房が機能していた1938から1947年までの間に、栗生楽泉園に在任していた医師は7人、うち第一世代が1人、第二世代が3人にも及ぶ。しかしこれらの医師たちは、重監房の存在を知らなかったとは思えないのに、収監者が病状を重くして一般病棟に転棟した場合は別として、全く収監者にかかわっていないようである。重監房の惨状には、無関心だったということだろうか。医師の発言を聞いた入所者の証言がある。

〈(後に)新しい園長さんなんか来たときに、(中略)「人間、あれだけの水で、(そんなに)生きられるはずがねぇんだけど、どうやって生きたもンだろう?」なんて、(中略)「生きたンだから、生きる方法があったんだよ。」(中略)「それは(中略)冬になると、手を伸ばせば、雪に届いたはずだ。雪を舐なめてたにちがいない。それから、夏は、雨の日はねえ、(中略)草が伸びて、いっぱいになってンだから、(中略)こっちへ掻かき寄せたら、水分がくっついてたはずだ。おそらく、それを舐めてるか、草を、そのまんま食ったか、そういうことで生きたにちがいない」。(中略)新しく来た先生なんかと、よく、そんな話、したことあるけどね。〉

前に、当時栗生楽泉園において医療に従事していた7人の医師は、重監房の存在に無関心ではなかったかと述べた。それが肯定されうるかもしれない、光田健輔の重監房についての所論がある。

〈監禁であるから一般患者と同様には、治療や給与の行届かない点もあつたことであろうが、これに対し終戦後そこに収容せられているものの中から「治療をしない」「食事を与へない」したがってこれは人権の蹂躙であると抗議して関係方面へ運動するものがあつた。これに対して過去数十年間の療養所管理の困難な事情や、監禁所設置にいたる長い間の研究討議の過程を知らない一部の法律家たちが法理論の上からであるのか、安価な同情からであるのか、とにかく人権の蹂躙を認めて草津監禁所の厳重な設備はとりこわされた。そしてそのとき園長は休職となったのである。永い間ライのために危険を冒していた園長が、ほかの善良な幾千の患者のためにとつていた手段を非として手に負えない不良患者のために追放せられるというようなことが、きわめて最近に起つているのである。〉

この所論が掲載されている『回春病室』の発行年は1950年だから、1947年の第一回特別国会衆議院厚生委員会の特別病室をめぐる審議を承知の上での内容であろう。そうだとすると、患者の人間性をどうみていたのか、溜め息をつくしかないが、癩を病んで自暴自棄に陥ったものは何をするかわからないという思いは、第二世代の所長たちにも強かった。…

…重監房の収監者を、何のためらいもなく極悪人のように思っていたのか、―いや実際は、患者が往診を頼めば、外来に来れば、病棟に入れば診る、それ以外はすべて関係がない、といった狭い医療観だったのではないか。さもなければ、加島ごときの「チンピラやくざ」に、医者ともあろうものが一言も責めない理由がわからない。

成田稔「重監房(「特別病室」)について」『国立ハンセン病資料館 研究紀要第4号』

光田イズムに<呪縛>されている医師の姿がある。光田の自己正当化にも呆れ果てるが、要するに光田は患者に対して「社会の偏見や差別によって迫害されていた、衣食住にも困って徘徊していたお前たちを救ってやったのだ」という考えである。極論を言えば、まるで動物を檻に入れて飼育している飼育員である。尾を振って言いなりになる犬には愛情を持って可愛がるが、牙を剥いて反抗する犬は「躾け」と称して食事を制限したり狭い檻に閉じ込めたりする。患者の生殺与奪の権を握った管理者であって、患者を治癒する医師の姿ではない。彼らにとって患者は研究のための「モルモット」である。

成田稔「重監房(「特別病室」)について(補訂)」(国立ハンセン病資料館 研究紀要第5号)

先の「重監房(特別病室)について」を「別の観点からの考察」を加えた論文だが、重監房や収監患者を医師や職員がどのように見ていたか、その苛酷な非人間的な扱いを江戸時代のキリシタン迫害(拷問も)と対比させて考察していて興味深い。

一松の答弁や光田の所論に対する、すなわち彼らが言う「重監房の功績」に対して厳しい批判を成田は書いている。

<「草津へ行くか」という言葉は、やがて管理者による殺し文句となっていった。「草津へ行くか」とは、反抗のむくいとして「死にたいか」という意味であり、患者を黙らせるにはこの一言で足りた。>という状況が横行し、しかもこれを相応な教育(特に医学)を受けた管理者も知っていたのなら、収監者よりも自身の立場を却って惨めに思いはしなかったか。ある患者の行状が(善かれ悪しかれ)死につながりかねないと、医療者としてたとえわかっていても、「死ぬぞ」と威すのではなく、命の大切さを諭し善後策を考えるのが当然のはずだが――。
無法かつ故意による死を予知させる、権力の罷り通った治外法権域が、医療の場(癩療養所)に存在していたばかりか、恐らく医療者もそれを知りながら黙視していた。これは日本の癩(らい) 対策の根源的な誤り(病気と患者との峻別をなおざりにしたこと)に由来しようが、いずれにしても重監房は、当時「最善」と信じられた隔離対策が生んだ最悪の汚点だった。

成田稔「重監房(「特別病室」)について(補訂)」『国立ハンセン病資料館 研究紀要第5号』

「立場が人をつくる」とは、元同僚が教頭に昇任したときに管理的態度と抑圧的言動を行った際に開き直って言った言葉である。「救癩」の思いで療養所の医官となった医師も職員も、体制に組み込まれ、先達や上司の指示命令に従うなかで、いつしか患者を管理する「立場」であることを当然と思うようになり、「~してやっている」という傲慢で威圧的な態度が普通になっていく。患者を自らと同じ人間と見なすことは薄れていき、患者の痛みに共感もしなくなってしまったのではないか。まして「重監房」に入れられた患者は「不良患者」「犯罪者」「反抗者」であって「懲戒」の対象でしかないという感覚に陥ってしまう。

…(重監房の)独房の壁板に「癩を病むが故にこの悲運!なんと云ふみじめさよ!」との落書きが残されていたとある。…重監房に収監された悲運や惨めさは、人であればこそであって、病故であろうはずがない。つまり何を病もうと病むまいと、これほどの劣悪な環境下に置かれれば悲惨の極みと誰しもが嘆くだろう。結果的に人間を排除したという意味では、本人のとらえ方はどうあれ前述したキリシタン弾圧と同じといえる。排除の名目も、邪教、正法誹謗、不羲不善、国家不益、天譴というキリシタンへの誹謗と、恐るべき伝染病、絶対隔離、癩病撲滅、血統純血保持、無癩国日本という癩患者への暴論とによって、いずれにしても人びとを遍ったのも共通する。

故にもし、重監房に収監されたものの心理的、身体的苦悩に共感できれば、すぐにでも出してほしいという思いを感じとり、出してやりたい、という感情つまりいつくしみややさしさといった思いに駆られて当然である。
重監房を取り仕切ったという加島も、まさに人である。それであれば、上に述べたような思いがかけらほどもなかったらしいのは、どう考えればよいものだろうか。加島は、狡知に長けていたかどうかはともかく、権力志向の強い男ではあったというが、そこを12歳の子どもの役割取得能力にすら欠けた、自己中心的な子どもじみた人間とだけ、単純に決め付けるのは多分間違っているだろう。癩という病気と、それを病む人とを分けて考えられない、癩患者への対応に限って、いわば人間としての感性が乏しかったということもあり得る。
それであれば、そうした存在を育てたのは、改めていうまでもなく日本の癩対策だった。すなわち、癩の根絶は(絶対隔離による)癩患者の根絶と同羲だと教え、しかもこれを国策とした上に、その推進者たる光田健輔は文化勲章の授賞対象にまで推されたのだから、癩医療の関係者のほとんどすべてが、患者中心どころかおそらく患者を粗末な存在とし、そのように扱って憚らなかった。そしてそれは私たちすべてが同じだった。

<内も外も、みな敵ばかりです。癩者はボロ靴のように療養所というごみ箱に捨てるのが人類の正しい発展となるのでしょう。自分がボロ靴であることを意識しました>
北條民雄のこの文章は、その意味で正鵠を突いている。

化学療法の普及によって癩(らい)は治癒するようになったが、おそらく多くの人が、癩(らい)を病んで治った人でも、人と認知しようとしていない。筆が少し先走ったが、絶対隔離を「癩予防法」とその終生隔離の基本原理を踏襲した「らい予防法」のもとに強行した国際的にも稀なる愚行は、加島ばかりでなく、私たちほとんどすベてを癩(らい)患者への感性の乏しい人間に育てた。

敗戦後の1947年8月、重監房の極悪非道な実態が「特別病室事件」としてようやく白日の下にさらされるに至るが、それまでに、加島分館長ら一庶務課長とは結託していたらしいが、少なくとも国立の医療機関であるからには、園長室や医官室(医局)あたりに大手を振って出入りできるような立場ではない一が、権力を恣にふるって人の生殺与奪の裁量まで自由にした。その非道に、施設の現実の権力者、例えば園長、医務 課長、医官らも含めて誰も容喙しなかったとした ら、戦時中だろうとなかろうと奇怪である。

成田稔「重監房(「特別病室」)について(補訂)」『国立ハンセン病資料館 研究紀要第5号』

この成田の考察は、当時のハンセン病に関わる療養所の医官や職員、厚生省官僚も含めての患者観であったことは確かだろう。彼らの言動の根拠こそ、絶対隔離政策の産みの親である光田健輔であり、光田イズムであった。そして、その残滓は今も私たちのなかにある。ハンセン病問題は国賠訴訟によって終わったのではない。

私たちの心を縛っていた糸は、私たちの社会が近代より前から持っていた癩への忌避すなわち縦糸と、近代以降の、癩と癩患者を峻別せず、癩患者の根絶と絶対隔離の遂行による無癩国日本の具現を謳い、人間無視の荒唐無稽な繰り言を並べた日本の癩(らい)対策すなわち横糸によって紡がれたものである。
余談になるが、日本の癩対策のはじまりは国辱的存在と見なされた浮浪する癩患者の隔離だった。それを、その患者の状態がどうあろうと、すベての患者の隔離に踏み切ったときから、その対 応事態が国辱的になってしまった。
加島の思考と行為という形をとって現れた非人道的な振る舞いを見過ごしたことは、取り返しのつかない過ちであった。それをそうと思わなかった私たちは、自らの心を縛っていた縦横の糸を解いたように見せかけながら、実は今でも、「嫌な病」、「怖い病」、ともかく「普通」でない病を持つ人にはその糸を解かずにいるのではないか。その人自身がどれほど哀しい思いでいるかを思いやらず、自分から遠ざけたい、できたら消えてほしい、と思ってはいないか。改めて私たち自身の心の深奥を探り、ほんの少しの<やさしさ>が失われていないか省みたい。

成田稔「重監房(「特別病室」)について(補訂)」『国立ハンセン病資料館 研究紀要第5号』

ハンセン病問題を学ぶのではなく、ハンセン病問題から学ぶのである。成田が問うのは、私たちの心にある差別や偏見の存在である。

ハンセン病への差別や偏見の実態を把握するため、厚生労働省が一般の人を対象に初めて意識調査を行ったが、6割以上の人が「ハンセン病への差別意識を持っていない」と答えたが、2割近くの人が身体に触れることに抵抗を感じると答えたほか、元患者の家族と自分の家族が結婚することに抵抗を感じると答えた人も2割以上にのぼったことがわかった。

「人は遠くのことは、美しい言葉で語る」とは部落差別と闘い続ける知人の言葉だが、残念ながら真実である。これほどにハンセン病問題の解決に尽力し、詳細な研究を行ってきた成田稔であるが、国立ハンセン病資料館における館長であった自らの人権侵害(セクハラ・パワハラ)には自覚がなかった。彼の著書や論文から多くを学び示唆を受けた者として、実に残念である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。