1951年11月に行われた「三園長証言」は、翌1952年5月の第1回全癩患協支部長会議の場において、その内容が公表され、各療養所の自治会が知ることとなる。「三園長証言」に対する全癩患協および各療養所の対応については後で検証するが、光田健輔が長島愛生園の入所者に弁明した内容を、藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』より引用しておく。
光田も『愛生園日記』に、「患者を刺激した参議院証言」「学問と信念」と題して、次のように述べている。
「首をはねてから…」は光田の常套句である。『光田健輔の思い出』の中にも散見する。
明治生まれの気骨に満ちた頑固者である光田らしいといえるが、その独善性が患者を苦しめ、日本のハンセン病政策を狭め、停滞させてしまったのも事実である。自説・持論に固執するあまり世界の動向すら認めることができず、まして患者に犠牲を強いていることさえも容認する傲慢さを<目的のための手段>として顧みることもしない。
上記の『光田健輔の思い出』を読むと、彼の別の顔、別の一面も浮かび上がってくる。光田の指導を受けた弟子たち、医官や看護師、事務官、さらには患者たちが見たり感じたりした光田の実像もまた光田健輔その人である。私はそれを否定はしない。しかし、その影響には自覚と責任を負うべきである。
同様のことが光田を信奉する者にも言える。光田を盲信する余り、光田の言動を正しく判断できない。無自覚の加担者となり、大勢を形成し、光田を「癩の権威者」へと祭り上げてしまった。
同書よりいくつか例を挙げておく。
上記の3人は愛生園で光田の薫陶を直接に受けた医師である。いわば「第一世代」の門弟である。恩師を盲信・盲従することはよくある話ではあり、一概に批判することはできない。光田の救癩に傾ける情熱、癩を一途に研究する姿勢、患者の健康に心を配る様子、常日頃そのような光田を見ていれば、彼らが光田に心酔するのも首肯できる。
しかし、彼らは光田というフィルターを通してしか患者も療養所も見てはいない。3人が「長島事件(騒動)」についての感想を書いている論点も光田擁護の視点であり、患者を「不平分子」「エゴイスト」「むごい忘恩の仕わざ」と批判している。また光田の主導する「絶対隔離政策」について、患者に犠牲を強いていることすら大義(「人類の福祉という大目標」)のためには仕方がないと光田に盲従している。林芳信は次のように光田を擁護する。
本論考において、私が繰り返し指摘しているのは、権威ある者を盲信する者たちによって<権威ある者の独善性は正当化される>ということだ。それによって「悲劇」は拡大し、隠蔽される。その思想も無批判に継承され、政策もまた継続されていく。そこには信奉による忖度も生まれる。何より彼らは疑うことも変えることもしない。この悪しき継承と継続が、「らい予防法」と「絶対隔離政策」を存続させ続けたのである。我々が「反面教師」として学ぶべきは、この<人間の連鎖>の弊害である。
本書(『光田健輔の思い出』)の出版は1974(昭和49)年である。光田健輔が亡くなって10年が過ぎている。この間の時勢を踏まえているのは犀川一夫だけである。彼は次のように書いている。
誰が「一般の人たち」を「癩という病名を聞いただけで恐れおのの」くようにしたのか。やはり光田の策略的政治工作、渋沢に取り入り、彼の知己から政財界に人脈を広げていく中で、ハンセン病対策が日本にとって重大事であることを伝えるために「恐ろしい伝染病」であることを極度に強調していったことが要因であると考える。
続けて、成田は「こうした情勢に敢えて逆らい、絶対隔離を強行する科学的不当性を憂えて、反対を明らかにした医学者に青木大勇、小笠原登、太田正雄の三名」を挙げて、彼らの意見を紹介している。参考までに抜粋して転載しておく。(青木については以前に論じているが、小笠原登については別項で論じるつもりである)
なぜ彼らの声は消されてしまったのだろうか。太田が言うように「強力なる権威」が、聞く耳を持たないどころか、彼らを排除したのだ。あるいは成田の言うように、「政官の権力を借りて絶対隔離の遂行に自信を強める光田には『勝手にほざけ』ということ」だったのかもしれない。この時点で、もはや光田一派の勢力は揺るぎないほどに強く、まさしく「強力なる権威」であり、日本のハンセン病政策はほぼ確立していた。
ところで、成田は「癩は恐ろしい伝染病」という「キャッチフレーズ」に言及して、次のように述べている。
確かに「恐ろしい」という言葉ほど人々の不安を煽り、排除・排斥の行動を正当化させるものはない。特にハンセン病などの病気であれば、そこに死亡率や感染力の強さであったり、容姿など外見上に病状が表れたり、さらに治療法がない「不治」であったりすれば、「恐ろしさ」は確定的となる。「伝染病」であれば、「伝染」する危険を回避する行動は当然のことである。それを「医者」が言明すれば、その信憑性を疑う者は皆無に近いだろう。
この当時の情報は主に新聞であり、紙上に載った情報や言葉は人々の口を通して、さらに尾鰭まで付いて、成田の言うように瞬く間に拡がっていったであろう。それは、真しやかに言い伝えられてきた俗説や噂話と混じり合い、一尾の恐怖心を煽っていったであろうことも想像に難しくない。各地に残るハンセン病の「俗称」の数々がそれを物語っている。
光田は「恐ろしい伝染病」という「キャッチフレーズ」を巧妙に使い、政治家や財界人、医者、国民を欺いて利用し、絶対隔離を実現していった。その最たるものが「無癩県運動」である。
もし光田が、この「キャッチフレーズ」を否定していればと思わないではいられない。光田は、社会にある差別や偏見からハンセン病患者を救うためと言いながら、「恐ろしい伝染病」と喧伝することで、社会に差別と偏見を深く拡散し、人々の認識に植え付けてしまった。
これが現在も続く、そしてもっとも解消されなければならない課題である。
はたして光田は、そのことをわかっていたのだろうか。あえて意図的・策略的に使ったのだろうか。本当にそう思っていたのだろうか。彼の回想録や随筆、論文を読み返すたび、どちらであったかわからなくなる。